岩倉宮忠成王
岩倉宮忠成王 | |
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岩倉宮(いわくらのみや) | |
続柄 | 順徳天皇の第5皇子 |
身位 | 諸王 |
出生 |
貞応元年(1222年) 佐渡国 |
死去 |
弘安3年12月13日(1281年1月5日)または弘安3年12月11日(1281年1月3日) 山城国 |
埋葬 |
不明 不明 |
配偶者 | 藤原範茂の娘、藤原範能の娘 |
子女 | 彦豊王、源彦仁(順徳源氏) |
父親 | 順徳天皇(第84代天皇) |
母親 | 藤原清季の娘(熱田神宮大宮司) |
岩倉宮忠成王(いわくらのみやただなりおう)は、鎌倉時代の皇族。順徳天皇の第五皇子。岩倉宮、広御所宮を号す。
経歴
承久3年(1221年)承久の乱が発生し、父の順徳上皇が佐渡国へ配流となるが、その翌年の貞応元年(1222年)に生まれる。祖母・脩明門院の四辻御所の一角で暮らしていたという[1]。
仁治3年(1242年)正月9日に四条天皇が崩御するが、僅か12歳での崩御であったことから皇太子が定まっていなかった。忠成王は土御門天皇の皇子・邦仁王とともに皇嗣候補として名が挙がり、忠成王には縁戚の前摂政・九条道家が、邦仁王には前内大臣・土御門定通が付いて、それぞれ鎌倉幕府に働き掛けを行った。一時は、朝廷では忠成王の皇位継承はほぼ確定的なものとされ、新しい天皇が着用する装束も忠成王の身体に合わせたものが製作されるなど、忠成王の即位に向けた準備が進められていたという[2]。
しかし、幕府執権の北条泰時は、忠成王の即位に伴って幕府に強い敵愾心を持つ順徳上皇が帰京することを懸念したらしく[2]、一時は軍事介入を仄めかしながら、鶴岡八幡宮の神意(籤を引いた結果)であるとして、同じく後鳥羽天皇の孫にあたる邦仁王を推す。結局、正月20日に邦仁王が皇位を継承した(後嵯峨天皇)。なお、同年9月に順徳上皇が佐渡で没した知らせを受けて忠成王は悲嘆の涙にくれたという[3]。
その後も、忠成王は皇位への望みを持っていたらしく、寛元3年(1245年)5月に平経高を召して数時間に亘って「密事等」(非常手段によって自らが皇位に就くことを望むことか[4])を語った[5]。翌寛元4年(1246年)5月に鎌倉幕府において名越の乱(北条光時の反乱未遂)が鎮圧され、7月には九条道家の子である前征夷大将軍・藤原頼経が鎌倉から追放される(宮騒動)。この際に、九条道家は忠成王を皇位に就けようと謀っているとの疑惑を受けて蟄居を余儀なくされ、失脚してしまう。このことは忠成王の皇位継承の願望に対する大きな打撃となった[4]。
忠成王は宝治3年(1249年)平経高の取り計らいにより元服する[6]。その後、四辻御所を離れて洛北郊外の岩倉に住み、石蔵宮(岩倉宮)と呼ばれた[7]。なお、文永元年(1264年)の修明門院の没後に四辻御所を含むその遺領は忠成王ではなく異母弟の善統親王(四辻宮)に継承されたため、後に岩倉宮・四辻宮間の紛争の原因となった[8]。
生涯、官位や親王宣下を受けることはなく、弘安3年12月(1281年1月)13日または11日卒去。享年59。