岡澤伸夫

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岡澤 伸夫(おかざわ のぶお、1944年12月10日 - )は、日本のプロスキーヤーオリンピック東京大会聖火リレー正走者。 父は岡澤吉夫。妻にひろ子(元子爵・小笠原忠幸次女)。

来歴[編集]

東京都出身。中学、高校、大学を通して競技スキー、全日本選手権、全日本学生選手権等に出場。 グラフィックデザイナー・亀倉雄策や、芸術家・岡本太郎、画家・藤田嗣治、俳優・鶴田浩二に可愛がられ、親交があった。

世界で初めての月刊スキー雑誌「スキージャーナル」発刊準備に伴い冬樹社に入社、フランス駐在特派員としてフランス、オーストリア、スイス、イタリア等ヨーロッパ各国のスキー場をまわり大会の写真と記事を日本に送る。スキージャーナル誌の表紙を数号飾った。また現在のワールドカップの前身でもあるクラシック3大大会を始め有名なスキー場はほとんど滞在しコースを滑る。
帰国後、日本体育大学に進学。柔道初段を取得したほか、同大学の女子スキー部監督としてインカレ優勝を果たす。
日本職業スキー教師協会設立に参加(会員番号103)
  • 1975年(昭和50年)、イタリアスキー教師協会の招聘によりイタリアへ。オリンピック委員会よりイタリア国家検定スキー教師資格を授与される(Mestro di sci No 2376 :Sestriere)。
以降、メーカーサイドでスキー、ブーツ等用具の開発に従事する一方で日本フランススキースクールを開設、またフランスよりフランス国立登山スキー学校(E.N.S.A)校長J・フランコを始め教授数人を日本に招聘。ヨーロッパの自然の地形を生かした自由なスキーであるフランススキーを日本で広めた。
また、インタースキー(世界スキー指導者会議)のチェコスロバキア会議及び日本会議に参加したほか、SIA理事としてSIAメダルの基本案から実施、テスト部会でスキーストッパーについて研究した。
さらにフランスアルプス開発協会(SNO)の招聘により12ヴァレーやティーニュ、レザルク、フレーヌ等新しいタイプのスキー場の実地踏査としてほとんどのコースを滑りそのイメージを日本に紹介するなど、国内・国外を問わずスキー文化の普及・発展に大いに貢献した。
スキー写真家として著名な藤川清の指名を受け、ポスター・カレンダー製作も行った。
  • 1983年(昭和58年)12月、約30日の長期競技合宿をフランスで行い、大回転10000関門通過を目標として実施。この合宿の参加者が翌年の全日本選手権の女子回転で優勝した。

現在、父吉夫と建てたスキーロッジ「アルペン山荘」(現・ヴィラ アルペン)で妻・ひろ子、長男・健と共に「スキーを楽しむお手伝い」をしており、宿泊客は90%以上が欧・米・豪からのスキーヤーである。

メーカサイドでの貢献[編集]

カザマスキーサロモンディナミック(ATOMIC)ジャパーナ(スポーツアルペン)、SSK等と契約し製品の開発に携わる。 現在のアトミック・ビンディング(ESS var)の普及にも携わり、当時のイエーガー社長と意気投合してから以降数年に亘って活動、当初1000台未満だったESSを数年で5万台の販売実績までに成長させた。

出演[編集]

  • 「スキーにして」TBS(1994年)

著書[編集]

  • 「アヴァルマン テクニック」 スキージャーナル社(1972年)
  • 「岡澤伸夫のスキーテクニック」 有紀書房(1981年)

主な契約先[編集]

CM・広告等[編集]

外部リンク[編集]