岐阜空襲
岐阜空襲(ぎふくうしゅう)は、第二次世界大戦中アメリカ軍により行われた岐阜県岐阜市に対する空襲。
ここでは、1945年(昭和20年)7月9日の空襲を記述する。
空襲の概要
- 1945年7月9日午後11時頃、熊野灘から進入したB-29の編隊135機は、琵琶湖上空で方向を変え、関ヶ原より岐阜県に進入する。
- 午後11時34分(米軍資料による)、空襲が開始される。攻撃照準点は現在の金町5丁目交差点(国道248号、岐阜県道151号岐阜羽島線、岐阜県道54号岐阜停車場線の交差点)と推測される。岐阜駅周辺、柳ヶ瀬、岐阜県庁舎(現岐阜総合庁舎)周辺、名古屋鉄道田神駅、川西機械岐阜工場(後の日本たばこ産業岐阜工場、現西日本キャンパック)、名古屋鉄道広江駅、安良田町駅周辺と、高射砲があった稲葉郡鏡島村(現岐阜市鏡島)に空襲を受け、岐阜市中心部はほぼ焼け野原となった。翌日午前0時20分(米軍資料による)に空襲が終了する。
- 使用されたのはE46集束焼夷弾、M47焼夷弾であり、計907.5tが投下された。
被害
- 岐阜市中心部の地形や当時の気候条件により、投下された爆弾の量あたりの被害は甚大であった。被災面積は約5km2といわれている。被害状況は諸説あるが、主な資料によると、
- 岐阜合同新聞(現岐阜新聞)1945年8月30日記事
- 死者:818人
- 負傷者:1,059人
- 全半壊家屋:20,363戸
- 罹災者:100,000人
- 戦災復興誌(建設省)
- 死者:863人
- 負傷者:520人
- 全半壊家屋:20,476戸
- 罹災者:86,197人
- 他にも様々な資料があり、特に負傷者数は約500人~5,000人とまちまちである。
その他
- 教育会館(旧岐阜県図書館)、乙津寺の石仏などに空襲の痕跡がある。
- 岐阜駅周辺高架事業により、西陸橋(かつて岐阜県道151号が東海道本線を跨いでいた陸橋)が取り壊された際、空襲で破壊された日用品、瓦などが大量に見つかっている。また、やけ残された丸物百貨店(後の岐阜近鉄百貨店)が解体される際、被災した壁の一部が保存の為切り取られている。
関連項目
参考
- 『熱き日の記録 岐阜空襲誌』(岐阜空襲誌編集委員会編 岐阜空襲を記録する会 1978年)
- 『岐阜も「戦場」だった 岐阜・各務原・大垣の空襲』(岐阜市平和資料室友の会 岐阜県歴史教育者協議 2005年)