岐阜空襲

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岐阜空襲ぎふくうしゅう)は、第二次世界大戦アメリカ軍により行われた岐阜県岐阜市に対する空襲

ここでは、1945年(昭和20年)7月9日の空襲を記述する。

空襲の概要

被害

  • 岐阜市中心部の地形や当時の気候条件により、投下された爆弾の量あたりの被害は甚大であった。被災面積は約5km2といわれている。被害状況は諸説あるが、主な資料によると、
  • 岐阜合同新聞(現岐阜新聞)1945年8月30日記事
    • 死者:818人
    • 負傷者:1,059人
    • 全半壊家屋:20,363戸
    • 罹災者:100,000人
  • 戦災復興誌(建設省
    • 死者:863人
    • 負傷者:520人
    • 全半壊家屋:20,476戸
    • 罹災者:86,197人
  • 他にも様々な資料があり、特に負傷者数は約500人~5,000人とまちまちである。

その他

  • 教育会館(旧岐阜県図書館)、乙津寺の石仏などに空襲の痕跡がある。
  • 岐阜駅周辺高架事業により、西陸橋(かつて岐阜県道151号が東海道本線を跨いでいた陸橋)が取り壊された際、空襲で破壊された日用品、瓦などが大量に見つかっている。また、やけ残された丸物百貨店(後の岐阜近鉄百貨店)が解体される際、被災した壁の一部が保存の為切り取られている。

関連項目

参考

  • 『熱き日の記録 岐阜空襲誌』(岐阜空襲誌編集委員会編 岐阜空襲を記録する会 1978年)
  • 『岐阜も「戦場」だった 岐阜・各務原・大垣の空襲』(岐阜市平和資料室友の会 岐阜県歴史教育者協議 2005年)