小笠原長昌
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政8年11月3日(1796年12月1日) |
死没 | 文政6年9月29日(1823年11月1日) |
改名 | 篤三郎、津八郎(幼名)→長昌 |
墓所 | 東京都文京区本駒込の龍光寺 |
官位 | 従五位下、主殿頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 陸奥棚倉藩主→肥前唐津藩主 |
氏族 | 小笠原氏 |
父母 | 父:小笠原長堯 |
兄弟 | 千勝丸、長瑶、義八郎、角之進、篤三郎、長昌、長恒 |
妻 | 正室:水野忠光の娘 |
子 |
長行、娘(森忠徳継室) 養子:長泰 |
小笠原 長昌(おがさわら ながまさ)は、陸奥棚倉藩の第3代藩主。肥前唐津藩の初代藩主。忠知系小笠原家9代。
生涯
棚倉藩第2代藩主小笠原長堯の六男。兄たちがいずれも早世したために世子となり、文化9年(1812年)の父の隠居により家督を継いだ。文化14年(1817年)に棚倉から唐津へ移封されるが、棚倉時代の莫大な借金のために藩財政が窮乏化していた上、移封による金も賄えなかったため、それを補うために領民に献金を求めたり、「御国益方役所」を設置したりして財政再建を図ったが、効果はなかった。また、唐津焼に白紋の雲鶴を作らせたのは長昌である。
文政6年(1823年)9月29日、28歳の若さで死去した。長男の長行は幼少だったため、養嗣子の長泰が跡を継いだ。