宮川香山
宮川 香山(みやがわ こうざん、男性、天保13年1月6日(1842年2月15日) - 大正5年(1916年)5月20日)は日本の陶芸家。明治時代の日本を代表する陶工。高浮彫、真葛焼(横浜焼)の創始者。子は2代目宮川香山・宮川半之助。海外ではMakuzu Kozanとしても知られている。
経歴
香山は天保13年(1842年)京都の真葛原に生まれた。父は陶工宮川長造。幼名は虎之助。19歳の時、父と兄が亡くなり陶工の家を継ぐと父が生前朝廷用の茶器を制作し「香山」の称号を受けていたため虎之助は初代香山の名を名乗り父の得意とした色絵陶器や磁器などを制作。その腕は評判を呼び慶応2年(1866年)25歳の時、幕府から御所献納の品を依頼されるまでになった。
明治3年(1870年)29歳の時、薩摩の御用商人梅田半之助、実業家鈴木保兵衛らに招聘され翌年、横浜に輸出向けの陶磁器を作る工房・真葛釜を開いた。しかし、当時の関東地方には陶磁器を作る土がなく有名な工房があるのは京都や中国地方などに集中していたため、この地に工房を開くのはかなりの苦労を伴う事業だった。
香山は当初欧米に流行していた薩摩焼を研究していくつもの作品を制作、この工房の作を「真葛焼」と名づけて輸出したが金を多量に使用する薩摩焼は制作費に多額の資金を必要とするため、香山は「高浮彫(たかうきぼり)」と呼ばれる新しい技法を生み出す。これは金で表面を盛り上げる薩摩焼の技法を、金のかわりに精密な彫刻を掘り込むことで表現したもので、薩摩焼の技法に変わる新しい表現方法を確立した。
香山はより細密な表現を身に着けるため庭に鷹や熊を飼うまでし、明治9年(1876年)35歳の時、高浮彫で作られた真葛焼はフィラデルフィア万国博覧会に出品されると多くの国に絶賛され、真葛焼と宮川香山の名を世界に知らしめた。
ところがのちに高浮彫は生産が難しいだけでなく精度を上げるほど完成まで何年もの時を必要とする生産効率の低さが問題化することになる。これに対処するため、香山は以後、作風を一変。清朝の磁器を元に釉薬の研究、釉下彩の研究に没頭しその技法をものにした。この技法で新たな魅力を築いた真葛焼きはその後も輸出産業の主役の一つとして持てはやされた。大正5年(1916年)死去。享年75。
エピソード
宮川香山の名は孫の宮川葛之輔が3代目を継いだが、まもなく横浜大空襲で焼死。弟、宮川智之助が4代目香山を名乗ったが復興は成らず4代目で真葛焼きと香山の名は絶えている。
代表作
- 高浮彫・渡蟹水盤
- 高浮彫・枯蓮ニ白鷺花瓶
- 高浮彫・南天ニ鶉花瓶一対
- 高浮彫・牡丹ニ眠猫覚醒蓋付水指
- 高浮彫・鴫花瓶
- 高浮彫・桜ニ群鳩花瓶一対
- 赤雲釉白竜紋花瓶
- 彩磁紫陽花透彫花瓶
- 磁製紫釉盛絵杜若大花瓶
- 青華山水花瓶
- 陶製木調弁天像
- 南蛮意建水
参考書籍
- 世界に愛されたやきもの MAKUZU WARE 眞葛焼 初代宮川香山作品集 (山本博士 編著、神奈川新聞社発行、ISBN978-4-87645-463-1)
- 「田邊哲人コレクション 大日本 明治の美 横浜焼、東京焼(真葛香山の名品「渡蟹水盤」「高浮彫東照宮眠猫覚醒蓋付水指」「高浮彫南天ニ鶉花瓶」他を収録」田邊哲人著 叢文社 ISBN978-4-7947-0665-2)
- 「帝室技藝員 眞葛香山」田邊哲人著 叢文社 ISBN4-7947-0424-0)
- 宮川香山と横浜真葛焼 (二階堂充 著、横浜美術館叢書、ISBN-10: 4896601688)