太田敏夫
太田 敏夫 おおた としお | |
---|---|
渾名 |
台南空の三羽烏 (坂井三郎、西澤廣義とともに) |
生誕 | (現在の長崎県西海市) |
死没 | 1942年10月21日(23歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1935-1942 |
最終階級 | 海軍飛行兵曹長(飛曹長) |
戦闘 |
太平洋戦争: ソロモン諸島の戦い ガダルカナル島の戦い |
太田 敏夫(おおた としお、1919年3月20日 - 1942年10月21日)は太平洋戦争期の日本海軍の戦闘機搭乗員。総撃墜数は34機。
経歴
1919年(大正8年)長崎県の農家に生まれる。1935年(昭和10年)佐世保海兵団に入団。戦艦金剛勤務を経て、1939年(昭和14年)操縦練習生課程修了。1941年(昭和16年)6月一二空付となり中国へ配属されるが、既に中国大陸での戦闘は終息しつつあり、実戦を経験することはなかった[1]。
数ヵ月後、台湾の台南基地に新設された台南海軍航空隊(以下、台南空)に配属され、1941年(昭和16年)12月8日、第3中隊の一員として開戦初日のクラークフィールド攻撃に参加し、1機の撃墜を申告する。その後、オランダ領東インドに対する作戦に参加した際、B-17との交戦し負傷したため数カ月の間地上での治療を余儀なくされた。[2]。
1942年(昭和17年)4月、台南空ラバウル進出。なお太田が初めて米軍機を撃墜したのは4月11日、ニューギニア上空でカーチスP-40を撃墜したときであった。記録によると、ラバウル方面での主な出撃回数は61回、その期間の個人撃墜記録は15機となっている。
同年8月7日、ガダルカナル島攻撃での戦闘ではF4Fワイルドキャット4機を撃墜した。10月21日、ガダルカナル島への爆撃機護衛任務に大野竹好中尉の2番機として出撃、F4Fと交戦し敵機1機を撃墜するも、他のF4Fに撃墜され戦死した。なお、このとき太田機を撃墜したのは、VMF-212(米海兵隊第212戦闘飛行隊)のフランク・デューリー中尉であるとされている。
人物・逸話
空戦技量が抜群だったことから、指揮官の2番機につくことが多かった。台南空では主に笹井醇一中尉率いる第2中隊に配属され、西澤二飛曹と共に坂井上飛曹に鍛え上げられた。1942年(昭和17年)5月17日、ポートモレスビーの敵基地上空で編隊宙返りを見せたエピソードがある。やがてこの3人はエース・パイロットとして『台南空の三羽烏』と呼ばれるようになる。
太田について坂井は後年次のように述懐している。「(太田は)色白の好青年で、いつもにこにこしていて、どちらかというと、おとなしい男でしたが、実戦には強かった。(中略)あばれん坊のそろっていた戦闘機隊では、ちょっと珍しい貴公子的な存在でしたね。」[3]
脚注
参考文献
- 坂井三郎『大空のサムライ・完結篇-撃墜王との対話』(光人社NF文庫、1975年)ISBN 4769823924
- ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース1937‐1945』小林昇訳(大日本絵画、2000年)ISBN 4499227127