コンテンツにスキップ

太伯・虞仲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。119.241.245.55 (会話) による 2011年7月3日 (日) 17:27個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎関連項目)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

太伯(たいはく)は、中国王朝の古公亶父の長男で、の祖とされる人物。泰伯とも。虞仲(ぐちゅう)は古公亶父の次男。『史記』「周本紀」では弟が虞仲とあるが、「呉世家」では仲雍とある。季歴の兄、文王の伯父に当たる。(き)。紀元前12世紀紀元前11世紀頃の人物。

古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、更に季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。

これを推し量って太伯と虞仲は季歴に後を継がせるために荊蛮の地へと自ら出奔した。周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り、全身に刺青をして中華へと帰るに相応しくない人物としてこれを断った。

太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともされる。太伯が死んだときに子がいなかったために、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。

史記』では世家の第一に「呉太伯世家」を挙げているが、これは周の長子の裔である呉に敬意を表したものであろう。『論語』泰伯篇では、季歴に地位を譲ったことについて孔子が「泰伯(太伯)はそれ至徳と謂う可きなり」と評価している。

日本との関連

髪を短く切るのは海の中で邪魔にならないように、刺青をするのは模様をつけることで魚に対する威嚇となる。この二つの風習は呉地方の素潜りをして魚を採る民族に見られると言う。に関する記述でも同じような風習を行っていることが見られ、これが元となって、中国日本そして李氏朝鮮までの朝鮮半島において、倭人は太伯の子孫であるとする説がある。例えば『翰苑』巻30にある『魏略逸文や『梁書』東夷伝などに「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とあり、『日東壮遊歌』や『海東諸国紀』等にもある。これは日本の儒学者林羅山などに支持され、徳川光圀がこれを嘆き『大日本史』執筆の動機になったと伝えられている。

  • 九州宮崎県諸塚山には、句呉の太伯が生前に住んでいて、死後に葬られたという伝承がある。
  • 鹿児島神宮(大隈国隅正八幡)には、全国の神社で唯一、太伯が祭られている。
  • 新撰姓氏録』では、松野連(まつののむらじ)は呉王夫差の後とある。

関連項目