天神信仰

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天神信仰(てんじんしんこう)は、天神(雷神)に対する信仰のことである。特に菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことをいう。

本来、天神とは国津神に対する天津神のことであり特定の神の名ではなかったが、道真が死後火雷天神と呼ばれ雷神信仰と結びついたことなどを由来とし、道真の神霊に対する信仰もまた天神信仰と称するようになった。

天満宮の臥牛。

歴史

藤原時平の陰謀によって大臣の地位を追われ、大宰府へ左遷された道真は失意のうちに没した。彼の死後、疫病がはやり、日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死した。さらには清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)。これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。

清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。元々京都の北野の地には火雷天神という地主神が祀られており、朝廷はここに北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした(御霊信仰も参照のこと)。道真が亡くなった太宰府にも墓所の地に安楽寺天満宮、のちの太宰府天満宮が建立された。また、949年には難波京の西北の鎮めとされた大将軍社前に一夜にして七本の松が生えたという話により、勅命により大阪天満宮(天満天神)が建立された。987年には「北野天満宮大神」の神号が下された。また、天満大自在天神日本太政威徳天などとも呼ばれ、恐ろしい怨霊として恐れられた。

平安時代末期から鎌倉時代ごろには、怨霊として恐れられることは少くなった。この時代に書かれた『天神縁起』によれば、この時代には天神様は慈悲の神、正直の神として信仰されるようになっていた。江戸時代には、道真が生前優れた学者・歌人であったことから、天神は学問の神として信仰されるようになった。

元々の火雷天神は天から降りてきた雷の神とされており、雷は雨とともに起こり、雨は農作物の成育に欠かせないものであることから農耕の神でもある。各地にも火雷天神と同様の伝承とともに天神が祀られていたが、火雷天神が道真と同一視されたことから、各地に祀られていた天神もまた道真であるとされるようになった。また、北野天満宮や太宰府天満宮からの勧請も盛んに行われた。天神(道真)を祀る神社天満宮・天満神社・北野神社・菅原神社・天神社などという名称で、九州西日本を中心に約一万社(岡田荘司らによれば3953社)あって分社の数は第3位である。

発祥の地

北野天満宮と太宰府天満宮はそれぞれ独立に創建されたものであり、どちらかがどちらかから勧請を受けたというものではない。そのため、北野天満宮と太宰府天満宮では「総本社」「総本宮」という呼称は用いず、「天神信仰発祥の地」という言い方をしている。

天神信仰の例

城の守護神として本壇に天神さまを祀っている松山城天神櫓(愛媛県)
北陸
福井県富山県では、長男が誕生するとそれ以後の正月、床の間に天神像(木彫や掛軸)を飾り、福井では1月25日にカレイを供える風習がある。この掛軸などは、母方の実家から送られる。これは幕末の頃に教育に熱心であった福井藩藩主松平春嶽が領民に天神画を飾るよう推奨し、それを富山の薬売りが広めたという説がある。また、石川県など前田藩の他の支配地域や隣接地域でも同様の風習があった。金沢市には正月に天神と複数の従者の木像を飾る風習が昭和30年代まで見られた。前田家菅原氏の出を称しており、家紋が天神の神紋と同じ梅鉢紋であるのも、そのためとされる。ちなみに前田家の家紋は「剣梅鉢」と呼ばれている。
広島県北部
子供の初節句に、天神像等の人形を贈る。三次人形を参照。
東京板橋区
関東最古の天神信仰である。梅木の霊力で疫病が退散し梅木を祭祀し天神信仰が始まった。(外部リンクを参照)  

天神信仰と牛

菅原道真と牛との関係は深く「道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在する。これにより牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされ臥牛の像が決まって置かれている。

関連項目

外部リンク