大﨑洋

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大﨑 洋(おおさき ひろし、1953年昭和28年〉7月28日 - )は、日本実業家芸能プロモーター吉本興業ホールディングス代表取締役会長

略歴

大阪府堺市出身。1969年昭和44年)泉北ニュータウンに新設された直後の大阪府立泉北高等学校に入学(第1期[1])。卒業後、関西大学社会学部に進学。1978年に卒業後、吉本興業(現・吉本興業ホールディングス)に入社した[2]。東京事務所、吉本総合芸能学院(NSC)担当などを経て2009年、吉本興業株式会社代表取締役社長。2019年より現職。

年譜

人物

エンターテインメントビジネス界において様々なプロジェクトを成功させ、1980年昭和55年)からの東京事務所時代には、漫才ブームを支えた。

吉本興業に入社した理由は、私服で通勤が可能な会社だったからと語っている。入社当初は仕事に対して特別やる気もなく適当に仕事をしていたが、ある日、会社の同僚と徹夜でマージャンをしたときに終始一人負け続けたことがあった。夜が空けた明け方近くまでずっと負け続けた大﨑はおもむろに立ち上がり、カーテンと窓を開けて外に向かって大きな声で「絶対に出世する!」と怒鳴り声を上げた。その日以来、仕事に対する姿勢は一変し、最終的に社長に上り詰めた。

吉本所属タレントの中でも、特にダウンタウンとの関わりが強く、吉本総合芸能学院(NSC)開校時の担当社員となり、無名時代の2人の兄貴分・マネージャー的存在(正式なマネージャーではない。 初代マネージャーと記されていたりもするが、それは誤り。)として業界のイロハを教える。その後、大阪で人気の頂点に立ったダウンタウンを東京に進出させる(松本人志は、「大阪で満足していたが、遠くて近い外国・TOKYOに無理やり移住させられた」とネタにしている)。

東京支社長就任後は、吉本興業の企業としての近代化を進めると共に、新たな劇場の建設や若手育成に力を注ぐ反面、会社の方針に従わない芸人やタレントを大胆にリストラ(解雇)し、山本圭一の淫行事件で早々に専属芸能家契約の解除を決定(2016年平成28年〉11月に吉本復帰が許された)。島田紳助の暴力団との親密交際(最終的に紳助が自ら芸能界引退)など、不祥事、モラルに反する行為を起こしたタレントに対し厳格な措置を取る(ただ、紳助が引退を決断する前に大﨑が本人に対して、どういった措置を取るつもりだったのかは著書においても述べられておらず、不明である。しかし、著書によれば吉本社内において様々な意見が出たが、大﨑は紳助本人に決断をしてほしかったと述べられている[4])。

1980年代、まだ松本が20歳頃、松本も大﨑も仕事が無く、ヒマをもてあました2人で映画館や銭湯等によく行っていた。ある日、大﨑が広いスポーツジムの25メートルプールで突然「俺が端から端まで息継ぎせんと泳げたら、これから先お前がどんだけ売れても、俺の言うこと1つだけ聞いてくれ」と言った。お互いこの業界で成功しそうにないと思っていた松本は「いいですけど」と答え、大﨑は本当に潜水してみせた。その20年後、本当に売れた松本は「1つだけって、なに言われるんやろ? 断ったろ思ってんねんけど」とネタにする[5]。しかし更にその後に松本が頑として首を縦に振らなかった出来事があった時に「あのときのプールの約束、今使うわ」と大﨑が言うと松本は「こんなときにですか…」と言いつつ「わかりました」と苦笑しながら了承した[6]

脚注

取材実績

関連文献

  • 常松裕明『笑う奴ほどよく眠る 吉本興業社長・大崎洋物語』幻冬舎、2013年。ISBN 4-34-402364-1 

関連項目

先代
吉野伊佐男
吉本興業
社長
第11代:2009年 - 2019年
次代
岡本昭彦