大口清澄

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大口清澄
時代 江戸時代
生誕 不詳
死没 弘化2年(1846年12月9日
改名 秀之丞→茂右衛門
別名 通称:茂右衛門 / 幼名:秀之丞
姓名:藤原清澄
幕府 江戸幕府
主君 蜂須賀家
阿波徳島藩
氏族 藤原秀郷大口氏
父母 父親大口軌逵森久品
兄弟 大口快藏大岡在寛室、森久嘉室、大口清澄
正室庄野八兵衛
継室猪子之蕃
大口清宗
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大口 清澄(おおぐち きよすみ、生年不詳 - 弘化2年(1846年12月9日)は、江戸時代後期および江戸時代末期の武将[1]。仕阿波徳島藩大口氏9代当主[1]

経歴[編集]

清澄は、阿波徳島藩家臣の大口軌逵次男に生まれる[1]森久品[1]初名大口秀之丞といい、元服して大口茂右衛門清澄と名乗った[1]。父の軌逵とともに阿波徳島藩蜂須賀家に仕えた[1]。初め庄野八兵衛の娘を正室に迎え入れたが、離別して猪子之蕃の娘を継室とした[1]

清澄は次男であり、家督を継がない予定だったため初めは奥小姓の職についていた[1]。だが兄の快蔵が若くして亡くなったた[1]め、正式な大口家の後継ぎと決定する。

寛政12年(1800年12月2日、父の軌逵が病死したため、享和元年(1801年4月1日に大口家の家督を継ぐ[1]。阿波大口家9代当主となって、蜂須賀家の城下に弐百五十石(250石)を領した[1]文化元年(1804年)から参勤交代行列の一人に名を連ね、主君に従って江戸に供する[1]。江戸では池田周防屋敷に行って交流を深めたという[1]。また清澄には子がおらず、清澄も男系上は大口氏ではなかったため、大口氏諸流の血縁にあたる服部家服部信守次男・服部牛五郎養子に迎えた[1]弘化2年(1846年12月9日、病死する[1]

氏族[編集]

大口氏は、藤原鎌足(中臣鎌足)子孫である藤原秀郷末裔とされ、伊勢国大口郷(現在の三重県松阪市大口町付近)に本拠を置く土豪となった[1]。つまり本姓藤原であるため、正式な姓名藤原清澄である。阿波大口家は代々阿波徳島藩に仕えた[1]。清澄の後を継いだ清宗は大口氏血縁の服部氏の子で清澄の養子であるが、この清宗もまた子がいなかったため、こちらも服部氏から養子を取った[1]

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『蜂須賀家家臣成立書并系図』徳島大学附属図書館蔵