大倉喜七郎
大倉 喜七郎 | |
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生誕 |
1882年6月16日 東京府 |
死没 | 1963年2月2日 |
出身校 | 慶應義塾大学 |
職業 | 男爵、大倉財閥2代目総帥 |
大倉 喜七郎(おおくら きしちろう、1882年6月16日 - 1963年2月2日)は、大倉財閥2代目総帥。男爵。東京生まれ。長唄の名を聴松。
父は大倉財閥創始者の大倉喜八郎。異母弟の大倉雄二(1918年-)は父喜八郎・兄喜七郎の回想・評伝を3冊執筆している。
来歴
父喜八郎の事業を引き継いで財閥の発展につとめ、戦後の公職追放、財閥解体などの難局に直面しながらも、特にホテルオークラ、川奈ホテルをはじめとする、日本のホテル業に大きな足跡を残した。
気さくで気前がよく、派手好みなハイカラ男爵だったため、周囲からは「バロン・オークラ」と呼ばれて親しまれていた。
大倉集古館の理事長職を長年つとめるなど文化事業にも功績があり、とくに近代日本絵画をパトロンとして、1930年には大金を投じてローマ開催日本美術展を後援して、横山大観をはじめとする画家たちの活動を支援するとともに、海外に紹介した。オペラ歌手藤原義江を援助し海外へ修行に行かせ、帰国後は帝国ホテルに住まわせた。日本屈指の趣味人でもあり、囲碁、音楽、舞踊、ゴルフ、カーレースと多彩な才芸を発揮した。義太夫、地唄、長唄、常磐津、清元、河東節、新内、小唄などにも没頭し、昭和初期には新邦楽の一種である大和楽(やまとがく)を創設した。尺八にも夢中になり、フルートと尺八を合体させた新楽器オークラウロを開発した。
慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学を卒業。その後1900年、イギリス・ケンブリッジ大学に留学。間もなく自動車の操縦はもとより修理技術まで習得、サリーのブルックランズ・サーキットで最初に開催されたカーレースにおいて、イタリア製フィアット120馬力レーシングカーを操縦して30マイルを争う「モンターギュ・カップ・レース」に平均速度80マイル以上を出して2位入賞(1907年7月6日)。[1]同年、お土産の自動車5台とともに帰国、日本初の自動車専門の輸入会社・日本自動車を設立した。その後も自動車通として知られ、オーナードライバー団体「日本自動車倶楽部」を設立、当局による自動車関連制度の策定にも協力、皇室御料車の選定や買い付けを任されたこともある。
1922年、父親に代わり帝国ホテル会長に就任。1931年、私財を投じて大倉山ジャンプ競技場を建設。1972年札幌オリンピック90m級ジャンプの会場として使用された。
1924年の日本棋院設立時には経済面で多大な援助を行い、1946年まで日本棋院副総裁を務めて名誉総裁となる。日本棋院ではその功績をたたえ、囲碁の普及、発展の功労者に贈る大倉喜七郎賞を1961年に創設。2006年には日本棋院囲碁殿堂入りした。
関連項目
注釈
- ^ 参戦のきっかけはドイツ人留学生から、「日本は戦争には強いかもしれないが野蛮国だから自動車なぞ無いんだろう」とからかわれたためと言う。また大倉は同じフィアットで日本でもアメリカの曲技飛行家・マースの「赤鬼号」と1911年5月3日に川崎競馬場で競走して勝利を収めている。ところがその帰途、メカニックが電柱にこのフィアットを衝突させて大破し、車は使用不能となったという。