大伴継人

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大伴 継人(おおとも の つぐひと、生年不詳 - 延暦4年9月24日785年10月31日))は、奈良時代後期の貴族宿禰左大弁大伴古麻呂の子。官位従五位下・左少弁、正五位上

経歴

大伴古麻呂の子として誕生。父は 天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱で処刑されている。

宝亀8年(777年)に遣唐使判官として入するが、宝亀9年(778年)に帰国の際に船が難破し、肥後国天草郡に漂着して帰朝した。

宝亀10年(779年)、従六位上から三階昇進し従五位下に叙せられる。同年能登、翌宝亀11年(780年)に伯耆守、天応元年(781年)に近江介と地方官を歴任した。また、この間の天応元年(781年)4月光仁天皇が病気となった際には美濃国不破関固関使を務めた。延暦2年(783年左少弁に任ぜられる。

ところが延暦4年(785年)、桓武天皇行幸中に長岡京にて藤原種継が暗殺されると、主謀者として兄弟の大伴竹良とともに捕らえられ、処刑された。子の国道縁坐して佐渡配流となった。

死後の延暦25年(806年)罪を赦され、正五位上に復している。

系譜

脚注

  1. ^ 鈴木真年『百家系図』巻59,大伴宿禰

参考文献