大伴古慈斐

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大伴 古慈斐(おおとも の こしび、持統9年(695年) - 宝亀8年8月4日777年9月9日))は、奈良時代公卿。名は古慈備祜信備祜志備とも記される。越前按察使大伴祖父麻呂の子。官位従三位大和

経歴

はじめ大学大允に任官したのち、天平9年(737年従六位上から従五位下に、天平11年(739年)従五位下に叙せられる。翌天平12年(740年聖武天皇の東国行幸に従って伊勢国鈴鹿郡赤坂の頓宮で従五位上、天平14年(742年正五位下。天平19年(747年)従四位下天平勝宝元年(749年)従四位上と聖武朝において順調に昇進し、天平勝宝年間に衛門督を務めた。また、この間の天平18年(746年河内守在任時に、同国古市郡にて尾張王が白いを捕獲した旨を上申したが、これが瑞祥とされ従六位以下の諸官が一階の昇叙を受けている(正六位以上は田租の免除)。

孝謙朝に入ると一転して昇進が止まり出雲守に左遷される、さらに聖武天皇崩御直後の天平勝宝8年(756年)には紫微令藤原仲麻呂の誣告を受け、朝廷に対する誹謗を行い臣下の礼を失したとの理由により、内堅(天皇の身近に仕える少年)・淡海三船と共に衛士府拘禁され、3日後に赦免となった。のち土佐守に左遷され任地に赴くが、翌天平宝字元年(757年橘奈良麻呂の乱連座して、そのまま任国である土佐国への流罪となった。

宝亀元年(770年光仁天皇の即位後まもなく罪を赦されて入京し、本位である従四位上に復位し、大和守に任ぜられる。宝亀2年(771年大嘗祭に際して、左大弁佐伯今毛人と共に南門を開く役を務め、この功労により正四位下に昇叙される。宝亀6年(775年)昔の事柄に詳しい老臣として従三位に叙せられ公卿に列す。 宝亀8年(777年)8月4日薨去。享年83。最終官位は大和守従三位。

人物

若い頃より才能があり、諸記録にほぼ通じていた。藤原不比等が人物を見込んで、自らの娘を古慈斐の妻としたという[1]

系譜

脚注

  1. ^ 続日本紀』宝亀8年8月4日条

参考文献