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堅田 (砲艦)

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堅田
艦歴
計画 1920年度
起工 1922年4月29日(日本)
1923年1月25日(上海、工事着手)
進水 1923年7月16日(上海)
完成 1922年11月(日本)
就役 1923年10月20日
除籍 1947年5月3日
性能諸元(竣工時)
排水量 基準:330t 常備:338t 公試:383t
全長 56.08m
全幅 8.23m
吃水 1.02m (公試平均)
主缶 ロ号艦本式混焼缶2基
主機 直立2段膨張レシプロ2基2軸 2,100hp
速力 16.0kt
航続距離 1,750NM / 10.0kt
(石炭20t 重油74t)
乗員 62名
兵装 40口径8cm単装高角砲2門
留式7.7mm機銃6挺

堅田(かただ)は、日本海軍砲艦勢多型砲艦の4番艦である。

艦歴

播磨造船所において1922年11月に完成、それを解体し上海に輸送、東華造船会社で組立てを行い、1923年10月20日に竣工、二等砲艦に類別された。

1931年6月1日、砲艦に類別変更。翌年の上海事変において、上海や長江方面の警備に従事した。日中戦争において、上海陸上作戦の支援、長江遡行作戦に加わった。太平洋戦争においては、長江流域の警備に従事した。1944年10月1日に軍艦から除かれ艦艇の砲艦に類別が変更された。

1945年4月2日九江で米空軍機の攻撃を受け大破着底し、その後引揚げられ、終戦時には上海で曳航された状態であった。1947年5月3日に除籍された。

艦長

  • 須賀彦次郎 少佐:1924年2月5日 - 6月21日
  • 後藤英次 少佐:1924年6月21日 - 7月15日
  • 須賀彦次郎 少佐:1928年5月10日 - 1930年1月15日
  • 木村昌福 少佐:1932年1月28日 - 9月20日

同型艦

参考資料

関連項目