コンテンツにスキップ

吉田満

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。朋ちゃん様 (会話 | 投稿記録) による 2011年7月25日 (月) 03:07個人設定で未設定ならUTC)時点の版 ({{jdate}}、全角チルダによる書式崩れ防止。)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

よしだ みつる

吉田 満
生誕 1923年大正12年)1月6日
日本の旗 日本 東京
死没 (1979-09-17) 1979年9月17日(56歳没)
出身校 東京帝国大学
職業 小説家、銀行員
テンプレートを表示

吉田 満(よしだ みつる、1923年1月6日 - 1979年9月17日)は、日本小説家である。代表作は映画化、長時間テレビドラマ化もされた小説、『戦艦大和ノ最期』。また、日本銀行行員として要職を歴任した。

人物

東京生まれ。東京府立四中旧制東京高等学校を経て、東京帝国大学法学部入学。

大日本帝国海軍における経験をもとにした著作を残すとともに、日本銀行勤務の傍ら「戦中派」の論客として戦争責任問題等に独自の言論を展開した。代表作である『戦艦大和の最期』で知られ、海軍での上官であった臼淵磐も吉田の著作を通して広く知られるようになった。

経歴

1942年昭和17年)に東京帝国大学に入学、バッハの音楽を愛する学生であった。翌年10月学徒出陣により海軍予備学生として武山海兵団に入団、1944年(昭和19年)に海軍電測学校を経て少尉(予備少尉)に任官されて同年12月戦艦大和に副電測士として乗艦した。翌1945年(昭和20年)4月、天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)に参加するも生還、その後は高知県須崎の回天基地に勤務した。

日本の敗戦後の同年9月、両親が疎開していた東京都西多摩郡に復員。同地に疎開していた作家吉川英治と面談し、その勧めに従い『戦艦大和ノ最期』を執筆した。同作は、ほぼ半日で完成したともいう。

戦後に入行した日本銀行では、ニューヨーク駐在を経験したほか[1]青森支店長、仙台支店長、国庫局長などを歴任した。最後は監事まで昇進したものの1979年(昭和54年)に死去した。

『戦艦大和ノ最期』

『戦艦大和ノ最期』は、雑誌『創元』掲載の予定が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲組織CCD(Civil Censorship Detachment)の検閲で全文削除され、口語体化するなど大幅に改変したものが細川宗吉の筆名で他誌で発表されるなどの紆余曲折を経て、1974年(昭和49年)まで数度の改稿を重ねて今日の姿となっている[2]

家族

息子吉田望は、電通勤務を経て経営コンサルタント[3]をしている。

主要作品

  • 戦艦大和ノ最期』 諸版で刊行
  • 『臼淵大尉の場合 進歩への願い』 
  • 『祖国と敵国の間』 以上は「鎮魂戦艦大和」にも収録、講談社 のち講談社文庫上下
  • 『提督伊藤整一の生涯』 文藝春秋、1978年、洋泉社MC新書、2008年11月 ISBN 4862483089
    • 以上は『吉田満著作集 上巻』(ISBN 4163408800) に収録 文藝春秋、1986年
    • それ以外は、同下巻(ISBN 4163408908) に未発表稿ほかと収録
  • 『戦中派の死生観』 遺稿集 息子のあとがきがある。
文藝春秋、1980年) ISBN 4163354506
文春文庫、1984年) ISBN 4167349019

伝記

脚注

  1. ^ 遺著『戦中派の死生観』には、作家三島由紀夫とのニューヨーク滞在時の回想と、同世代としての感想も記されている(三島も帝大法学部の後輩で、「戦艦大和」刊行に際し激賞の文を寄稿している)
  2. ^ 詳な始末は江藤淳『一九四六年憲法 その拘束 その他』(文春文庫1995年ISBN 4-16-736609-6 「死者との絆 占領軍の検閲と『戦艦大和ノ最期』」「『戦艦大和ノ最期』初出の問題」(p343 - p394)を参照。メリーランド大学図書館で江藤が発見した、『戦艦大和ノ最期』初出テクスト全文も併録(p395 - p433)
  3. ^ 没後まもない1980年(昭和55年)12月に放映された、NHK特集『散華の世代からの問い〜元学徒兵 吉田満の生と死〜』に、案内役で出ている。

外部リンク