吉川経信

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吉川経信
時代 室町時代
生誕 応永3年(1396年
死没 康正2年2月10日1456年3月16日[1]
別名 次郎三郎、二郎三郎[1]
戒名 円明院月山浄心[1]
官位 駿河[1]治部少輔[1]
主君 室町幕府 足利将軍家
氏族 藤原南家工藤流吉川氏
父母 父:吉川経見[1]、母:弥徳(吉川経秋娘)
兄弟 経憲経茂経信
正室:小笠原長徳
之経[1]経友信経[1]経方庄式部大輔室、
宍戸元家室(後村上氏室)、河上讃岐守
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吉川 経信(きっかわ つねのぶ)は、室町時代中期の武将安芸国国人吉川氏9代当主。戦国時代の武将として有名な吉川広家も、経信と名乗っていたこともあるが別人である。

生涯

応永23年(1416年)、父の隠居で家督を継ぐ。

永享13年/嘉吉元年(1441年)、嘉吉の変で将軍・足利義教を殺害した赤松満祐追討に参加して武功を挙げた。この功績により、幕府よりその功績を評価されて、安芸国内に加増され、地位も安芸国内における幕府の最大御家人として待遇されることとなった。

康正2年(1456年)に死去し、家督は子の之経が継いだ。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 今井尭ほか編 1984, p. 333.

参考文献

  • 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多小西四郎竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQISBN 4404012403NCID BN00172373OCLC 11260668全国書誌番号:84023599 
  • 中国新聞社『歴史紀行 安芸吉川氏』新人物往来社、1988年6月。ISBN 4-404-01517-8