亀井凱夫
亀井 凱夫 | |
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生誕 | 1896年3月21日 |
死没 | 1944年8月10日(48歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1919 - 1944 |
最終階級 | 海軍少将 |
亀井 凱夫(かめい よしお、1896年(明治29年)3月21日 - 1944年(昭和19年)8月10日)は、日本の海軍軍人で戦闘機搭乗員。津和野藩主・亀井氏の一族で、戸籍上は亀井貫一郎 の義兄となるが血縁上は実弟。革新官僚の毛里英於菟は義弟。吉良俊一に続き空母への着艦を成功させ、また夜間における空母着艦を成し遂げた。太平洋戦争において航空隊司令として歴戦し戦死。最終階級は海軍少将である。
来歴・人物
1908年(明治41年)3月に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1913年(大正2年)3月に東京高師附属中(現・筑波大附属中・高)を卒業。その後、海軍兵学校46期を卒業。同期生に高田利種、安田義達、猪口敏平らがいる。
少尉時代に横須賀海軍航空隊航空術学生として操縦技術を学び、戦闘機搭乗員となる。1922年(大正11年)、日本海軍最初の空母・「鳳翔」が竣工したが、陸上基地に比べ飛行甲板は狭く、また母艦は航行中であり、着艦が可能であるかが問題であった。翌年2月、元イギリス空軍大尉・ジョルダンが着艦を成功させ、続いて吉良俊一が日本人として最初の着艦を成功させる。亀井は馬場篤麿[注釈 1]中尉と訓練を重ね、同年12月、馬場と共に着艦を成功させた。吉良・馬場・亀井は着艦三羽烏の異名をとる[1]。1927年(昭和2年)には主に操縦術研究を目的に欧米出張を命じられる。
1930年(昭和5年)、横須賀海軍航空隊の分隊長であった亀井は夜間の空母着艦成功を目指す。当時の設備で夜間着艦を行うことは決死的作業[2]であったが、まず杉本丑衛少佐、大橋富士郎[注釈 2]大尉が一三式艦上攻撃機に搭乗し「赤城」への着艦を成功させた。最後に亀井が挑むが、搭乗するのは三式艦上戦闘機であり視界が悪く、最も成功を危ぶまれていた[3]。軍令部長・加藤寛治らが立ち会うなど海軍の大きな期待がかかった中、亀井は無事成功させた。この成功は海軍航空戦略・戦術の発展に寄与した。その後も航空隊や空母で飛行長等を務め、教官として源田實らを指導した。
1940年(昭15年)11月大佐に進級。翌年4月第三航空隊司令に就任し、太平洋戦争を迎える。開戦初期、三空は台南空とともにフィリピン方面の米空軍撃破の任にあたる。問題であった零式戦闘機の航続距離延伸を三空の副長兼飛行長であった柴田武雄らの努力により解決し[4]、南方作戦の成功に貢献した。第一段作戦終了後の1942年(昭和17年)11月、空母へ改装中の「大鯨」艦長に転じる。「大鯨]は「龍鳳」と改称され、第三艦隊に所属。亀井の在任中、「龍鳳」は一時第二航空戦隊旗艦になった[5]が、雷撃による損傷を受けるなどして海戦に参ずることはなかった。1944年(昭和19年)3月、第一航空艦隊麾下の五二一空司令に就任。 陸上爆撃機銀河(定数96機)[6]をもって米国艦隊との決戦に備えたが、空襲などによって航空機の殆どを失った。同年7月10日、 マリアナ航空隊司令に転じ、7月21日にグアム島に米軍の上陸を迎える。亀井は地上戦を戦い8月11日(玉砕電文発信は8月10日)戦死した。
航空関係の補職
航空隊
空母
参謀
脚注
注釈
出典
参考文献
- アジア歴史資料センター「出張任務に関する件」(ref:C04015838300)
- 池田清『日本の海軍』(下)朝日ソノラマ(1987年、初版)
- 伊藤正徳『大海軍を想う』文藝春秋新社(1956年、再版)
- 源田實『海軍航空隊、発進』文春文庫(1997年、第一刷)
- 源田實『海軍航空隊始末記』文春文庫(1996年、第一刷)
- 中澤佑刊行会編『海軍中将 中澤佑 作戦部長・人事局長の回想』原書房(1979年、初版)
- 中島親孝『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争』光人社NF文庫(1997年、第一刷)
- 山本親雄『大本営海軍部』白金書房(1974年、初版)
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』(第9巻) 第一法規出版
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 (海軍篇)』芙蓉書房出版
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会
- 武田頼政『零戦の子 亀井凱夫とその兄弟』