乗松雅休
乗松 雅休 | |
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生誕 |
1863年8月25日 伊予松山藩 |
死没 | 1921年2月12日 (57歳) |
職業 | 宣教師 |
乗松 雅休(のりまつ まさやす、文久3年7月12日(1863年8月25日) - 大正10年(1921年)2月12日)は日本のプロテスタント最初の海外宣教師。
生涯
伊予松山藩士の子供として生まれた。20代で上京して、1887年日本基督公会で、稲垣信牧師から洗礼を受けた。献身して、明治学院に入学する。神学生時代、乗松は日本基督一致教会で奉仕していた。途中で、プリマス・ブレザレンのハーバード・ブランドに出会ったことをきっかけとして、明治学院を中退した上で、日本基督公会をも脱会して、開拓伝道をしていたブランドの集会に加わる。それが後のキリスト同信会である。後に、大阪、紀州、江川、北越、信州で伝道した。
1896年日清戦争が終わると、単身で朝鮮に渡り、ソウル、水原を中心に伝道した。日本人初の海外宣教師である。ブランド・首藤新蔵らとソウルでローマ書を翻訳し、1899年9月9日に「新約聖書羅馬書」として出版した。
病気のため1914年に帰国する。1921年に57歳で死去するが、遺言により白洋舍の創設者五十嵐健治らが朝鮮に遺骨を運んだ。
現在も韓国に乗松の記念碑がある。これは、破壊されずに残った唯一の日本人の記念碑である。生きるも主のため、死ぬのも主のためと書かれている。
在主 故乗松兄姉 記念碑
生為主死為主始為人終為人其生涯忠愛己帯主使命而舎
其一切所有夫婦同心伝福音於朝鮮数十年風霜其苦何如
心肺疼痛皮骨凍飢手足病敗其於朝鮮犠牲極矣然動静惟
頼主甘苦不改楽其生涯祈祷与感謝也得我多兄弟同会于
主主名得栄其生涯苦而亦栄矣臨終口不絶朝鮮兄弟願遺
其骨於朝鮮此所以為我等之心碑而至於主再臨之日也与
参考文献
- 「クリスチャン情報ブック2006」