ルドヴィーク・スヴォボダ

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ルドヴィーク・スヴォボダ (1968)

ルドヴィーク・スヴォボダLudvík Svoboda, 1895年11月24日 - 1979年9月20日)は、チェコスロヴァキア軍人、政治家。大統領(在職:1968年 - 1975年)。大将。チェコスロバキア社会主義共和国英雄(3度)。

来歴・人物

トシェビーチTřebíč)近郊フロズナチーンHroznatín)の農民の家庭に生まれる。第一次世界大戦時、1915年オーストリア=ハンガリー帝国軍に召集され、ロシア戦線に送られた。チェコ人のグループを率いてロシア帝国軍に投降し、1916年チェコ軍団に入隊。

1920年に帰国し、チェコスロバキア軍の将校となる。1931年1934年、グラニーツァの軍事アカデミーで講師を務めた後、歩兵大隊長となる。ドイツ軍によるチェコスロバキア占領後、反ファシスト軍事組織に加わる。1939年夏にポーランドに出国してチェコスロバキア人部隊を編成するが、同年9月、ソ連に移る。

第二次世界大戦中、1942年2月に第1チェコスロバキア独立歩兵大隊の創設を発議し、1943年3月から戦闘に加わった。1943年、大隊旅団に昇格し、キエフベーラ・ツェールコヴィジャシュコフで戦う。1944年以降、第1チェコスロバキア軍団を率いて、赤軍とともにナチス・ドイツからチェコスロヴァキアを解放する。

大戦中の功績から、戦後国防大臣に就任。1948年チェコスロバキア共産党に入党し、国会議員に選出。1950年1951年、政府副議長兼国家体育・スポーツ問題委員会議長。1955年1959年クレメント・ゴットヴァルト名称軍事アカデミー校長。

1968年3月、辞任したアントニーン・ノヴォトニーに代わって、大統領に就任。アレクサンデル・ドゥプチェクヨゼフ・スムルコフスキーオルドジフ・チェルニークと並んで、「プラハの春」を象徴する顔となった。8月のワルシャワ条約機構軍の軍事介入に際して、親ソ派による革命労農政権樹立に断固として反対。直接モスクワに飛び、ソ連指導部と事態収拾にあたった。ソ連邦英雄でもあるスヴォボダを、ソ連は最大級の歓迎に恫喝を交えつつ取り込もうとしたのに対し、スヴォボダは逮捕・軟禁されたドゥプチェクたちの解放をあくまで要求し、実現した。

その後、1973年に大統領に再選。1975年に病気辞任するまでその地位に留まったが、グスターフ・フサークが進める「正常化」路線において、ほとんど影響力を持てなかった。

1979年9月20日、心臓発作のためプラハ市内の国立療養所で死去(83歳)[1]

叙勲

脚注

  1. ^ 「プラハの春」で活躍した スボボダ前大統領死亡『朝日新聞』1979年(昭和54年)9月21日朝刊 13版 7面
先代
アントニーン・ノヴォトニー
チェコスロバキア大統領
1968年 - 1975年
次代
グスターフ・フサーク