リチャード・ヘイマン

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リチャード・ヘイマン
Richard Hayman
リチャード・ヘイマン(1966年)
基本情報
出生名 Richard Warren Joseph Hayman
生誕 (1920-03-27) 1920年3月27日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
マサチューセッツ州ケンブリッジ
死没 (2014-02-05) 2014年2月5日(93歳没)
職業 編曲家作曲家ハーモニカ奏者
指揮者音楽ディレクター
レーベル マーキュリー
ナクソス
共同作業者 アーサー・フィードラー
ボストン・ポップス・オーケストラ

リチャード・ヘイマンRichard Hayman, 1920年3月27日 - 2014年2月5日)はアメリカ合衆国アレンジャー作曲家ハーモニカ奏者、指揮者音楽ディレクターである。アーサー・フィードラー時代のボストン・ポップス・オーケストラで、30年以上にわたってチーフ・アレンジャーを務めた。

経歴[編集]

マサチューセッツ州ケンブリッジ生まれ。18歳のときにボラ・ミネヴィッチとハーモニカ・ラスカルズ (Borrah Minevitch and His Harmonica Rascals) のハーモニカ奏者として音楽業界に入る。やがてハリウッドに出入りするなかでメトロ・ゴールドウィン・メイヤーの音楽ディレクターの目にとまり、『ガール・クレイジー (Girl Crazy) 』(1943年)、『若草の頃』(1944年)などの映画音楽オーケストレーションを任されるようになった。このハリウッド時代にマックス・スタイナーアルフレッド・ニューマンエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトら映画音楽の巨匠達の薫陶を受けている。

1945-50年まで当時人気を誇ったヴォーン・モンロー・オーケストラ (Vaughn Monroe Orchestra) のレコーディングに参加、1950-65年にはマーキュリー・レコードA&R・ディレクターとしてヴィック・ダモーンパティ・ペイジのレコーディングに携わる傍ら自らもポップス・オーケストラを指揮して同レーベルから数々のアルバムを発表した。1960年にハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星を授かる。またこの時期からボストン・ポップス・オーケストラにチーフ・アレンジャーとして招かれるようになり、アーサー・フィードラーの下で数々の名編曲を生み出した。これらの編曲は、ボストン・ポップスのシェフがジョン・ウィリアムズキース・ロックハートの代になっても使われ続けている。

ポップス指揮者としても活躍し、セントルイス交響楽団の名誉ポップス指揮者、グランドラピッズ交響楽団ハートフォード交響楽団及びカルガリー・フィルハーモニー管弦楽団の首席ポップス指揮者のポストを持つ。セントルイス響では2010年に彼の90歳を祝うコンサートが開催された[1]。また1960年-68年までデトロイト交響楽団の首席ポップス指揮者を務め、ボストン・ポップスでは指揮者としてもフィードラーを補佐した。

彼自身のヒット曲に、1950年代に大ヒットした「ルビー」(映画『Ruby Gentry』のテーマ曲の編曲で、彼がハーモニカ・ソロを担当)や「ダンセロ(Dansero)」がある。レコーディングでは、1950年-60年代にマーキュリーから、80-90年代にはナクソスから、リチャード・ヘイマン&ヒズ・オーケストラ (Richard Hayman and His Orchestra) 名義で多くのアルバムを発表している。

2014年2月5日、マンハッタンで死去した[2][3]

脚注[編集]

  1. ^ Richard Hayman returning to St. Louis”. KSDK.com (2010年6月21日). 2013年10月19日閲覧。
  2. ^ Richard Hayman - obituary”. The Telegraph (2014年2月9日). 2014年2月15日閲覧。
  3. ^ Richard Hayman, acclaimed Pops arranger”. The Boston Globe (2014年2月10日). 2014年2月15日閲覧。

参考文献[編集]