ミュンヘンの悲劇
出来事の概要 | |
---|---|
日付 | 1958年2月6日 |
概要 | 滑走路に張った雪による失速 |
現場 | ドイツ・ミュンヘン リーム空港 |
乗客数 | 38 |
乗員数 | 6 |
負傷者数 | 19 |
死者数 | 23 |
生存者数 | 21 |
機種 | エアスピード アンバサダー |
運用者 | 英国欧州航空 |
機体記号 | G-ALZU |
ミュンヘンの悲劇(ミュンヘンのひげき、Munich air disaster)は、1958年2月6日、ドイツ・ミュンヘンのリーム空港(現在のフランツ・ヨーゼフ・ストラウス空港とは異なり、メッセゲレンデの場所にあった空港)で起こった航空事故。乗員・乗客44名のうち、23名が死亡した。イングランドフットボールリーグのチーム、マンチェスター・ユナイテッドのチャーター機であり、主力選手の命が多く失われた。
背景
1955年から開始されたヨーロッパのクラブ選手権であるチャンピオンズカップに初めてイングランド代表として乗り込んだのが、当時黄金時代を迎えていたマンチェスター・ユナイテッドだった。しかしこの参戦は孤立主義を掲げていたイングランドサッカー協会の警告を無視したもので、国内リーグの日程を調整してもらうこともできず、強行日程を強いられることとなっていた。
準々決勝に進出したマンチェスター・ユナイテッドはユーゴスラビアの強豪、レッドスター・ベオグラードと対戦。ホームで2-1と勝利したのち、2月5日(水曜日)に敵地・ベオグラードに乗り込み3-3の引き分け、総計5-4で準決勝進出を果たす。現代でこそ当たり前になった水曜・土曜の連戦だが、まだ飛行機の事情も良くなく、移動に労力を費やしていたこの時代に共産圏の国で試合をしてまた帰ってくるというのは信じがたい強行日程であった。また、土曜日にはブラックバーン・ローヴァーズとの上位直接対決が控えており、帰国を焦っていた事情もあった。更に、この時期は欧州全土を寒波が襲っていたという。
事故とその原因
英国欧州航空(BEA)のチャーター機・BE609便は選手の一人がパスポートを忘れたためベオグラードを1時間遅れで出発した。当時のプロペラ機はブリテン島まで無着陸飛行する能力がなく、ミュンヘンに給油のために立ち寄った。給油後、2度離陸を試みるがエンジン出力が上がらず中止。不安に駆られた乗客の中には当時安全とされた後部座席に移る者もいたが、皮肉にもこれは犠牲者を増す結果となってしまった。午後3時4分、3度目の離陸を試みる。しかし離陸に必要な速度に達せず、機体は空港の端のフェンスを突き破り空き家に側面から激突して止まった。機体は大破し、多くの乗客の命が失われた。乗客のうち乳児一人は生存した選手であるハリー・グレッグが爆発の危険を顧みず命がけで助け出した。
原因については当初、翼の上に付着した雪または氷が影響したこと、またこのことについて操縦士が判断を怠ったためとされた。しかし後の事故調査委員会の調査で、離陸前の写真から翼に異常はなかったことが判明。更に操縦士の証言を元に実験を行うなどして検証した結果、滑走路に積もったシャーベット状の雪または氷(スラッシュ)が機を失速させたことが明らかとなり、操縦士の責任ではないことが明らかとなった。この事故で得られた経験はこれ以降、世界中の常識となった。しかし、機長のジェームズ・タイン(James Thain)は二度と操縦桿を握ることなく、心臓発作により54歳で亡くなるまで故郷でひっそりと養鶏を営み暮らしたという。
犠牲者および生存者
犠牲者
選手
- ロジャー・バーン
- マーク・ジョーンズ
- ダンカン・エドワーズ - チームの中心的選手だった。事故から15日後に亡くなる
- エディー・コールマン
- トミー・テイラー
- リアム・ウェラン
- デービッド・ペッグ
- ジェフ・ベント
その他の犠牲者
- ウォルター・クリックマー - クラブの秘書
- バート・ウェイリー - コーチ
- トム・カリー - トレーナー
- アルフ・クラーク - マンチェスター・イブニング・クロニクル紙記者
- ドン・デビース - マンチェスター・ガーディアン紙記者
- ジョージ・フォローズ - デイリー・ヘラルド紙記者
- トム・ジャクソン - マンチェスター・イブニング・ニュース紙記者
- アーキー・レッドブルック - デイリー・ミラー紙記者
- ヘンリー・ローズ - デイリー・エクスプレス紙記者
- エリック・トンプソン - デイリー・メール紙記者
- フランク・スウィフト - ニュース・オブ・ザ・ワールド紙記者。元イングランド代表GK。元マンチェスター・シティ所属選手
- ケネス・レイメント - 副操縦士
- ベラ・ミクロス - 旅行代理店添乗員
- ウィリー・サティノフ - 同行したファン
- トム・ケーブル - 客室乗務員
生存者
選手
その他の生存者
- マット・バスビー - 監督。数日間の危篤状態から生還
- フランク・テイラー - 記者
- ジェームス・セイン - 機長
- ジョージ(ビル)・ロジャーズ - 通信士
- ピーター・ホワード - カメラマン
- テッド・エリヤード - カメラマン
- ヴェラ・ルキッチ - 旅行者。ユーゴスラビアの外交官の家族だったといわれる
- ヴェノーナ・ルキッチ - ヴェラの乳児の娘。ハリー・グレッグによって救出された
- ミクロス夫人 - 亡くなった旅行代理店添乗員の夫人
- N・トマシェヴィッチ - 旅行者
- ローズマリー・チェヴァートン - 客室乗務員
- マーガレット・ベリス - 客室乗務員
マンチェスター・ユナイテッドのその後
8名の死者のほか、2名が再起不能であり、当然チームは大きな打撃を受けた。チャンピオンズカップの準決勝も控え選手中心で臨むが敗退。しかし、奇跡的に生還した監督マット・バスビーと、その後精神的打撃からも立ち直ったボビー・チャールトンが中心となってクラブを再建。若手選手の目覚しい成長もあり、マンチェスター・ユナイテッドはFAカップとフットボールリーグを制覇。ミュンヘンでの事故から10年後の1968年には、悲願のチャンピオンズカップを奪取し、イングランドのクラブとして初めてヨーロッパ制覇を成し遂げた(このときのエピソードについてはボビー・チャールトンの項を参照)。
これらの歴史的な背景から、マンチェスター・ユナイテッドはイングランドリーグを代表するクラブとして世界中のフットボールファンに認知され、長年名門クラブとして活動を続けている。
マンチェスター・ユナイテッドのホームスタジアム、オールド・トラフォードの一角には、事故の犠牲者を追悼する祈念碑が掲げられ、スタジアムの時計は事故の起きた時間で止まっている。