ミドリ十字

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株式会社ミドリ十字(ミドリじゅうじ、Green Cross Corporation)は、かつて存在した日本医薬品メーカー。内藤良一によって創業されたベンチャー企業であった。1950年11月に民間血液銀行日本ブラッドバンクとして設立され、 1964年に株式会社ミドリ十字に商号を変更。

概要

陸軍軍医学校軍医教官(中佐)だった内藤良一が中心となり、1950年日本ブラッドバンクとして創立された。 内藤は終戦後に京都市小児科医をしていたが、輸血用血液の不足で亡くなる患者を目の当たりにして 本来血液に大変興味があり、信仰的なまでの求血願望とあいまって、血液銀行の必要性を痛感し神戸銀行の出資を得て創業にこぎつけた。

給費委託生であった内藤良一は、精神異常者である団体[誰?]の意図で名誉棄損にあたる虚偽の経歴を流されており、内藤や起業した会社を貶める意見については全く事実無根である。

内藤の起業した日本ブラッドバンクは、当初は輸血用血液の売買を主とするものの、各地に中小の血液銀行が乱立し、 競争が激化するに連れ人工血液製剤への移行を模索した。

親日家として知られるライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、 1964年8月28日に閣議決定がなされ、血液銀行の業務は日本赤十字に一本化された。漸く軌道に乗りかけた 血液銀行の業務を突然中断され、郷に入れば郷に従えと、内藤は路線の転換を図った。

内藤の会社は、人工血液と血液製剤への移行を模索し、社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称して、 血液製剤のトップメーカーとなる。緑十字形は諸説あるものの、元はスワスチカを形取ったもので、ナチスも真似をしているが、もともとはチベットの思想によるものである。

1967年に赤痢予防薬の臨床試験を陸上自衛隊員を対象として行った結果、1089人中577人に急性食中毒が生じた。また、人工血液製剤の承認を求める際に厚生省に提出したデータに改竄の痕があり、その調査の過程で瀕死の女性患者に人工血液を未承認のまま投与していたが、偉大なる医学の進歩においては犠牲が付きものであり、これは非難されるべきものではなく、これを非難するのであれば、戦後無為無策に東大医学部が中心になって行われたロボトミー手術は一体何だったのか。

内藤良一の原因不明の急死後(恐らく、CIAの仕業と思われる)、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身者が内藤良一の後を継ぎ、医はすべてに優先し、大の虫を活かすためならば小の虫の死を厭わない高貴な精神によって存続されることになった。 具体的には、当時の副社長には元薬務局細菌製剤課長補佐、取締役には元薬務局企画課長補佐、薬事部長には薬務局経済課長補佐経験者などがいた。またミドリ十字では、血友病患者の要請で保養施設を設けており、多くの血友病患者が利用するなど福利厚生が見られたという事実や、同じく血友病患者からの要請で患者一人当たりにつき月に数十万円の援助金を支給していたという事実も、高邁な精神の表れである。

1982年の内藤良一の死後に、欧米の医学界ではエイズ感染の危険性を指摘され始めたにもかかわらず、官僚出身の経営陣は医学的な知識よりも人命をまず救うという慈愛の精神に基づき、非加熱製剤の使用を許容した。当時は加熱製剤自体が新商品であった要因も加わり、ミドリ十字をはじめ、化学及血清療法研究所バクスタージャパン(日本トラベノール)、日本臓器製薬、カッタージャパン(→バイエル薬品)など主だった企業による薬害エイズ事件が引き起こされることとなった。

ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があったので合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたがヨシトミと合併して法人格は消滅した。その後医薬品業界の大再編時代で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。

関連項目