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ペトロー・ボルボチャーン

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ペトロー・ボルボチャーン

ペトロー・ヌィクィーフォロヴィチ・ボルボチャーン(ウクライナ語:Петро Никифорович Болбочанペトロー・ヌィクィーフォロヴィチュ・ボルボチャーン1883年 - 1919年)は、ウクライナ出身の軍人で、ウクライナ人民共和国軍大佐ウクライナ・コサックオタマーンである。ボリシェヴィキとの間に行われたウクライナ・ソヴィエト戦争では、共和国軍部隊を率いて赤軍と戦った。特にクリミア作戦での活躍が知られる。

概要

初期

ボルボチャーンは、ウクライナがロシア帝国領であった1883年に、現在のチェルニウツィー州ホトィーン地区に当たる、ベッサラビアヒジュカ村(セロー)の聖職者の一家に生まれた。キシニウ神学校を卒業すると、チュフーイィウ貴族学院で学んだ。そこで、ウクライナの、特にコサック歴史について関心を持った。

軍歴

1914年第一次世界大戦が勃発すると、ロシア帝国軍の一員として戦場に赴いた。1917年ロシア革命が起こると、ウクライナではウクライナ人民共和国が成立した。同共和国が1918年1月22日に独立を宣言すると、ボルボチャーンはウクライナ共和国連隊を組織して首都キエフの防衛に当たり、ミハイル・ムラヴィヨフ率いる赤軍部隊との戦いで際立った働きを残した。

2月にコスチャンティーン・プリソーウシクィイ将軍の独立ザポリージャ隊が設立されると、ボルボチャーンは第1ザポリージャ連隊(クーリニ)の指揮官となった。独立ザポリージャ隊がザポリージャ師団に改編されたのちは、第2ザポリージャ歩兵連隊を指揮し、左岸ウクライナにおけるボリシェヴィキとの戦闘に参加した。4月にはクリミア軍群の指揮官となり、北ターヴリヤクリミア半島での赤軍との戦闘で輝かしい働きを見せた。

クリミアのウクライナ軍を指揮していたドイツ軍が第一次世界大戦での敗戦により撤退すると、白軍の勢いに押されて群もメリトーポリオレクサンドリーウシクに撤退した。秋には、群はザポリージャ師団と合同して北東ウクライナに移動、のウクライナ=ロシアの国境線の防備に就いた。ボルボチャーンは、第2ザポリージャ連隊の指揮官となった。ヘーチマンスコロパードシクィイは、戦闘での功績からボルボチャーンに陸軍大佐の地位を与えた。

しかし、その直後にプリソーウシクィイがロシア連邦国家を形成することを示唆すると、ボルボチャーンはこれに対して反旗を翻し、反ヘーチマン軍を組織した。ボルボチャーンはディレクトーリヤの指令によりウクライナ人民共和国軍のザポリージャ連隊のザポリージャ師団と全左岸ウクライナの部隊の総軍司令官となった。

没落

この年の末から翌1919年初めにかけては、ボルボチャーンにとって軍事政策上都合の悪い状況が続いた。ウクライナ軍は結局、左岸ウクライナから撤退せざるを得なくなった。そして、ボルボチャーンは国家への反逆という事実無根の告発により1919年1月に逮捕され、ウクライナ人民共和国領からハルィチナーへ追放となった。

6月6日、ボルボチャーンは政府に公正な支援を要請するため、無断で連隊の指揮をとった。ボルボチャーンは再び逮捕され、野戦軍法会議での話し合いの結果、銃殺となった。

外部リンク