ヒエロン1世

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硬貨に描かれたヒエロン1世(右)

ヒエロン1世ギリシア語: Ιέρων Α΄)は、デイノメネスの息子、ジェーロの弟であり、紀元前478年から紀元前467年までシュラクサイ僭主を務めた。彼の治世において、彼はシュラクサイの勢力を大いに高めた。彼は、ナクソスカターニアからレンティーニに住民を移住させてカターニアにはドーリア人を居住させ、アグリジェントと同盟を結び、レギオンの僭主アナクシラスと敵対するロクリア人を取り入れた。

彼の最も重要な軍事的功績は、紀元前474年クマイの戦いエトルリアカルタゴを破り、それによりカンパニアのギリシア人をエトルリア人による支配から守ったことである。この戦争を記念する碑文の彫られた銅の兜(現在は大英博物館に収蔵されている。)がオリンピアに奉納された。

ヒエロン1世の治世は、ギリシアの歴史上初めての秘密警察が創設されたことで特徴付けられるが、彼は文学や文化の進歩的なパトロンであった。詩人シモーニデースピンダロスバッキュリデースアイスキュロスエピカルモスや哲学者クセノパネスらは、彼の宮殿で活動した。彼はまた、全ギリシアの運動競技会にも熱心に参加し、馬レースや二輪馬車レースで数々の優勝を果たした。例えば、紀元前470年デルポイでの二輪馬車レースや紀元前468年オリンピアでの二輪馬車レースで優勝した。

ヒエロン1世は、紀元前467年にカターニアで死去し、その地で埋葬されたが、カターニアの元の住人が戻ってきた際に破壊された。シュラクサイにおける僭主制は、彼の死後、わずか1年程度しか続かなかった。

出典

パブリックドメイン この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press. {{cite encyclopedia}}: |title=は必須です。 (説明)

  • Diod. Sic. xi. 38-67; Xenophon, Hiero, 6. 2; E. Lübbert, Syrakus zur Zeit des Gelon und Hieron (1875). N. Luraghi, Tirannidi archaiche in Sicilia e Magna Grecia (Florence, 1994)

外部リンク

前任:
ジェーロ
ジェーラの僭主
紀元前485年紀元前478年
後任:
ポリゼロス
前任:
ジェーロ
シュラクサイの僭主
紀元前478年紀元前467年
後任:
トラシュブロス