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スメンクカーラー

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スメンクカーラー(スメンク・カ・ラー、SmenkhKaRa)は、古代エジプト第18王朝ファラオ(王)。名は「生あるものはラー神の出現」の意。

スメンクカーラーの謎

スメンクカーラーは新王国時代のファラオにしては珍しく、実像がほとんど明らかになっていない。ツタンカーメンアクエンアテン(アメンホテプ4世)と共に王名表から名が削除されたことや、ツタンカーメンよりも像やレリーフなどの遺物が残されていないためである(ツタンカーメンの場合も、墓から出土した物以外の遺物は極めて少ない)。

系譜

アメンホテプ3世の子でアクエンアテンの弟である、アクエンアテンの息子である、など系譜上における位置が確定していないため、結論は未だに無い。中には、王妃ネフェルティティハトシェプストに肖って即位した際に使った偽名とする説も存在する。スメンクカーラーの別名「ネフェルネフェル・ウ・ラー」をネフェルティティが用いていたことに加え、スメンクカーラーがあたかも女性としての扱いを受けていたかのようなことを匂わせる遺品等も数多く発見されており、このことがよけいに研究者を混乱させている。

アクエンアテンの共同統治者とされ、メンフィスを本拠地にアメン神官団とアクエンアテンとの意見の調整を行っていたと考えられている。王妃はアクエンアテンの王女メリトアテン。子は確認されていない。

墓とミイラ

アクエンアテンとほぼ同時に亡くなっているが、在位期間の短さのため墓が用意されていなかったのか、それとも何らかの混乱があったためか、最初からスメンクカラーのために用意された墓は現在も確認されていない。 イギリスの歴史ミステリ作家であるグレアム・フィリップス(Graham Phillips)は王家の谷 KV55をスメンクカーラーの墓とし、アクエンアテンの妃の一人(ティイ)のものと思われる女性の棺、陵墓を再利用してスメンクカーラーの墓に充てたとしている。棺は顔が判別できないほどに右目を残してことごとく破壊され、頭部のウアジェト女神と顎鬚は後から加えられ無理矢理男性の型に直されたことは一目瞭然である。またその陵墓は文字の類ひとつない粗雑な未完成の墓であり、壁の加工も粗末で地下水の浸水により、発見当初棺は開いて防腐処理されたはずの遺体はすでに腐って白骨化していた。 しかし、ザヒ・ハワス等、KV55をアクエンアテンの王墓と位置づけている研究者もおり、解決をみない。

KV55から発見されたミイラはエジプト考古学博物館で保管されているが、棺が破壊されていたため発見当時には既に白骨化していた。このため、死因に関しても過労死説、殺害説などがあり不明。 発見された遺体は男性のものであるが、その腕はなぜか女性の形(片腕を胸に置き、もう片方の腕を身体に沿って下げる)で納棺されていた。

遺物

頭像とされるものが発見されており、容姿はある程度判明している。(ただこれもまた奇妙なことに、男性なのに胸部が女性のように膨らんでいたり、と謎が多い)また、ツタンカーメンの第二の棺とカノプス壷に収められたミニチュア棺型の臓物容器は、いずれも元来スメンクカーラーのために作成された副葬品であることが確認されている(X線などによる「潰された」カルトゥーシュの精査、およびハワード・カーターのツタンカーメン王墓発掘の際の手記などによる)。そのほかツタンカーメン王墓で出土した副葬品の内、かなりのものがスメンクカーラーの物であったことも判明している。これらの証拠から、スメンクカーラーが実在した可能性は高いと見られている。

先代
アメンホテプ4世
古代エジプト王
132代
前1336-1334年
次代
ツタンカーメン