ネフェルティティ

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Beauty of Aten, the Beautiful one has come

ネフェルティティヒエログリフ: <-𓏏:𓈖:𓇳-𓇋𓄤𓄤𓄤𓄤𓇍-𓏏:𓏭-𓀭-> - NefertitiNeFeRTiTi、紀元前14世紀中葉)は、エジプト新王国時代の第18王朝ファラオであったアクエンアテン(aKH-eN-aToN, イクナートン、旧名アメンホテプ4世)の正妃であり、ファラオ・トゥト・アンク・アメン(TuT-aNKH-aMeN, ツタンカーメン)の義母である。

ネフェルティティの胸像(ベルリンの国立博物館所蔵)

彼女の名の大意は、NeFeR-T-(美しい・者)が iTi(訪れた)。ネフェルティティはまた、謎を秘めた未完成の美しい胸像で著名であり、古代エジプトの美女の一人と考えられている。

エジプトの5ピアストル(エジプト・ポンドの補助通貨)紙幣に肖像が使用されている。

ネフェルティティの生涯[編集]

家族[編集]

ネフェルティティの両親が誰であったのか、正確には分からない。推測においては二つの説があり、一つは、後にファラオとなる大神官アイと、その妻テイ英語版Tey)のあいだの娘とする説と、もう一つは、ミタンニ王女タドゥキパ英語版Tadukhipa)を彼女に比定する説である。

第19王朝において、アクエンアテンアマルナ革命は否定され、ファラオ・アクエンアテンの存在そのものが記録から抹消された。後に復元されたファラオの王統によれば、彼女の夫であるアクエンアテンは、後のファラオ・トゥト・アンク・アメンの父である(二人の親子関係は2010年のDNA調査でほぼ確定された)[1]

ネフェルティティが、いつアクエンアテンと結婚したのか、またいつ正妃となったのか、正確な年や日付は不明である。しかし、彼女がアクエンアテンとの間に6人の娘を生んだことは知られている。6人の王女の名前と推定誕生年は次の通りである。

  • メリトアテン(MeRiT-aToN) 在位2年(紀元前1348年)
  • メケタトン(MeKeT-aToN) 在位3年(紀元前1347年)
  • アンケセンパーテン(aNKHeSeNPa-aToN) 在位4年(紀元前1346年) -トゥト・アンク・アメン正妃
  • ネフェルネフェルアテン・タシェリト(NeFeRNeFeRu-aTon TaSHeRiT) 在位6年(紀元前1344年)
  • ネフェルネフェルレ(NeFeRNeFeRu-Re) 在位9年(紀元前1341年)
  • セテペンレ(SeTePeN-Re) 在位11年(紀元前1339年)

アマルナ革命[編集]

在位4年(紀元前1346年)、アメンホテプ4世(後のアクエンアテン)は、歴史に著名なアテン信仰を宣言する。この年はまた、今日アマルナ(テル・エル・アマルナ)として知られる新都アケトアテン(「アテンの地平」の意)の建設が開始された年だと信じられている。在位5年(紀元前1345年)、アメンホテプ4世は彼の新たな信仰の証として、みずからの名を公式にアク・エン・アテン(「アテンに愛される者」、イクナートン)に変更した。それは1月2日頃であったと推定される。在位7年(紀元前1343年)、王国の首都はテーベより、アケトアテンへと遷都された。とはいえ、新都の建設はなお進行中であり、更に二年を要して紀元前1341年頃に都市としての体裁を整えたと考えられる。新都は王と王妃、二人の新しい信仰に献げられた。また遷都の前後、ネフェルティティの胸像は作成されていたと考えられている。

娘に続くネフェルティティ自身の記録の消失[編集]

在位12年(紀元前1338年)の11月21日と推定される碑文が、彼女の娘メケタトンについて言及する最後の記録である。この日付の後、少ししてメケタトンは死去したと考えられる。アマルナの王家の谷にあるアクエンアテンの墓の浮き彫りは、彼女の葬儀の様を表しているように思える。

アクエンアテンの在位14年(紀元前1336年)、ネフェルティティ自身に関する歴史的記述が一切消えてしまう。またこの後、彼女について言及した記録も存在しなくなる。仮説は、王妃の突然の死に出逢い、耐え難い心の苦痛を抱いた王アクエンアテンがネフェルティティに関する言及を禁じたとするものから、王の寵愛を失い、王妃の地位を失ったネフェルティティが政治的に失脚してその名が消えたというものまで議論されている。しかし、この事件に関する信憑性ある資料は、歴史から完璧に消え去ってしまっている。

共同統治者スメンクカーラー[編集]

ネフェルティティの消失は、共同統治者スメンクカーラー(SMeNK-KHa(H)-Ra)の王座への登位、そしてアクエンアテンの新たな王妃キヤ英語版(KiYa)への言及と、時間的に符合している。スメンクカーラーは、ネフェルティティの娘メリタトンと結婚していたと考えられる。しかし、スメンクカーラーが、ネフェルティティに代わってアクエンアテンの正妃の地位を占めたとも考えられ、また二人のファラオが恋人関係(男色関係)にあったとも考えられる。いずれにしても、スメンクカーラーもアクエンアテンも、紀元前1334年または紀元前1333年に逝去した。アクエンアテンは死亡のとき、少なくとも29歳であり、17年間王位にあった。スメンクカーラーは4年間、アクエンアテンの共同統治者であった。なお、ネフェルティティをスメンクカーラーに比定する説も存在する。

ネフェルティティは誰であったのか[編集]

トゥト・アンク・アテン(TuT-aNKH-aToN)が二人の後を襲った。彼はアクエンアテンの息子であり、おそらくスメンクカーラーの弟だと思われる。トゥト・アンク・アテンは、ネフェルティティの娘の一人アンケセンパーテンと結婚した。王夫妻は、若く未経験であった。ある説は、ネフェルティティはなお存命しており、若い二人に影響力を持っていたと信じている。もし事態がこの通りだとして、彼女の影響力と、おそらく彼女の人生自体が、トゥト・アンク・アテンの在位3年(紀元前1331年)には終焉していたと考えられる。トゥト・アンク・アテンはアメン神への信仰の証として、その名をトゥト・アンク・アメン(TuT-aNKH-aMeN, ツタンカーメン)に変えた(妃アンケセンパーテンもアンケセナーメンに改名)。またアケトアテン(アマルナ)を放棄して、首都をテーベに戻した。ネフェルティティがミタンニ王女タドゥキパだったとすれば、彼女はこの頃35歳前後である。

タドゥキパ、ネフェルティティ、スメンクカーラー、そしてキヤのあいだで想定される比定に見られる通り、彼らの時代や生涯に関する記録はきわめて不完全である。ネフェルティティは、タドゥキパであったのか、共同統治者スメンクカーラーであったのか、あるいは突然出現する王妃キヤであったのか、その誰とも違っていたのか、現時点の歴史的資料からは判断ができない。 

アクエンアテンの改革と敗北[編集]

紀元前1346年(頃)、エジプト第18王朝の若きファラオアクエンアテン(旧名アメンホテプ4世)は、父王アメンホテプ3世の逝去で、全権を掌握すると、かねてからの理想を実行に移し始めた。

  • 伝統的なアメン神を中心にした神殿権力による多神崇拝を否定し、太陽神アテンの一神崇拝を理念に掲げた(世界最初の一神教といわれる)。神殿勢力の本拠であるテーベと古都メンフィスを棄て、新たな地に新都アケトアテンを築き、遷都した。アクエンアテンは、アテンを讃美する平和と恵みの歌をみずから記し、エジプトの主要な土地で、「アテン讃歌」と呼ばれる讃美の詩を岩に刻ませた。これをアマルナ革命と言う。
  • アテンは平和と恵みの神であり、アクエンアテンは戦争を否定し、ためにヒッタイトの侵出を許した。また多神教を理念的に否定したのであって、アメンの神官等を鏖殺することをせず、神殿勢力を存続させたため、アクエンアテンの死後、すみやかに神殿勢力は勢いを復活させ、アテン信仰は崩壊へと進んだ。
  • 紀元前1334年(頃)、アクエンアテンを継承したファラオ・トゥト・アンク・アテン(Tut-aNKH-aToN)は、名をトゥト・アンク・アメン(TuT-aNKH-aMeN)に変え、アメン信仰に復帰する。
  • トゥト・アンク・アメンの早急な死後、大神官アイはファラオの位に登り、アメン神殿と宥和して、将軍ホルエムヘブを派遣してヒッタイトをパレスティナより撃退する。ホルエムヘブがやがて、アイの後を襲ってファラオとなり、アクエンアテンの名と存在、その事績をすべて抹消する。こうして、アマルナ革命はアクエンアテンやその家族、宮廷の記録と共に、エジプトの砂の彼方に埋もれた。

古代エジプトの三人の美女[編集]

ネフェルティティは、クレオパトラと並んで美女の代名詞にもなっている。「古代エジプトの三大美女」と言えば、紀元前1世紀プトレマイオス朝の女王クレオパトラ7世、紀元前13世紀第19王朝の大王ラムセス2世の正妃ネフェルタリ、そしてこのネフェルティティがあげられる。

彫刻[編集]

  • 石灰岩の素体に漆喰で肉付けした、高さ48cmの像。砂の中に埋まっていたので彩色は保存されていた。右眼は象嵌。左眼は彫った跡もなく未完。現在ベルリンのエジプト博物館にあるが、エジプトの返還要求により国際裁判中。
  • 2010年にイギリスの歴史学者が、この胸像をCTスキャンしたところ、内部に別の彫像が確認され、その彫像は鼻が曲がり目の周りにしわのあった女性だったことを明かしている。そのため、現在の胸像は元の彫像を後に美女に仕立て製作されたものという見解を示している[2]
    • ネフェルティティの胸像(アマルナ出土の胸像:ベルリンの国立博物館所蔵:前14世紀半ばの作)

注釈[編集]

  1. ^ “ツタンカーメン解き明かされた系譜(記事全文)”. ナショナルジオグラフィック公式日本語サイト. (2010年9月). http://nationalgeographic.jp/nng/magazine/1009/feature01/ 2011年9月閲覧。 
  2. ^ 2010年9月22日付中日新聞朝刊4面(国際欄)『美人王妃は虚像だった? 胸像内に別の顔』