カフジの戦闘
カフジの戦闘 | |
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戦争:湾岸戦争 | |
年月日:1991年1月29日 - 2月1日 | |
場所:サウジアラビアのカフジ (北緯28度25分 東経48度30分 / 北緯28.417度 東経48.500度) | |
結果:多国籍軍の圧倒的な勝利 | |
交戦勢力 | |
アメリカ合衆国 サウジアラビア カタール イギリス |
イラク |
指導者・指揮官 | |
Khalid bin Sultan ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ ノーマン・シュワルツコフ |
サラーフ・アブード・マフムード少将 |
戦力 | |
第1海兵師団 第2軽装偵察大隊 第2海兵師団 第2サウジアラビア国家警備隊旅団 アメリカ陸軍特殊部隊群 |
第1機甲師団 第3機械化師団 第5機甲師団 |
損害 | |
戦死 43 負傷 52 捕虜 2 |
戦死 60-300 捕虜 400 |
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カフジの戦闘(Battle of Khafji)は、湾岸戦争中の1991年1月29日から2月1日にかけて、サウジアラビアのカフジ市周辺で、アメリカ軍などによる多国籍軍と、イラク軍の間で行われた戦闘である。
背景
1990年8月2日にイラクは、政治的な対立を理由にクウェートへの侵攻を開始した。前日に、両国の仲介に当たっていたエジプトの大統領ホスニー・ムバーラクとパレスチナ解放機構(PLO)議長のヤーセル・アラファートは「イラクのクウェート侵攻は無い」とクウェートに明言していたため、イラク軍によるクウェート侵攻は全く予想しない事態であり、意外であった。
クウェート軍に対するイラク軍の圧倒的な戦力は、数時間以内にクウェートを占拠した。同日中に国際連合安全保障理事会は即時無条件撤退を求める国連決議第660号を決議し、8月6日には全加盟国に対してイラクへの全面禁輸の経済制裁を行う国連決議第661号も決議した。
アメリカはサウジアラビアに圧力をかけ、サウジアラビア国内でのアメリカ軍駐留を認めさせた。また、アメリカは有志国を募り、アメリカ、フランスなどによる有志による多国籍軍を編成、またアラブ諸国もアラブ合同軍を編成した。
しかしイラク側は国連の決議を無視し、撤退する態度を見せなかったため、国連は11月29日に翌1991年1月15日を撤退期限とした対イラク武力行使容認決議(国際連合安全保障理事会決議678)を決議、それでもイラク側は期限までに撤退しないため、1月17日から湾岸戦争が開戦する。
概要
イラク軍部隊は、カフジ市の石油貯蔵タンクを奇襲し、イスラエルへスカッドミサイルで攻撃を加えていた。その後イラク側の部隊は、南クウェートからのサウジアラビアへの侵攻を試みていた。サダム・フセインはサウジアラビアへの多面的な攻撃を行うため、第1機甲師団、第3機械化師団、第5機甲師団へ出撃を指示した。
イラク側の3個師団はサウジアラビア侵攻前に、空からの爆撃を受け、損失を被っていた。しかしサウジアラビアへの出撃を決行し、1991年1月29日に多国籍軍からの攻撃を受けた。イラク部隊の大部分はアメリカ海軍と多国籍軍による攻撃によって撃退されたが、イラク側のI部隊が、29日-30日の夜にかけてカフジ市を占拠した。
30日から2月1日にかけて、サウジアラビア国家警備隊とカタールの2個戦車中隊が、アメリカからの火器類の支援を受け、カフジ市の都市機能の奪取を試みた。2月1日には、アメリカ軍、サウジアラビア軍、カタール軍を主力とする多国籍軍部隊は43名の戦死者と52名の負傷者を出しながらもカフジ市を奪取した。イラク側は30-600名の戦死者を出したが、400名の捕虜を得た。
多国籍軍が勝利したこの戦闘は、航空機による敵部隊への攻撃が大きな成果を上げた現代戦であり、またカタール軍の戦闘能力のテストにもなった。また、この戦闘での勝利によりカタール軍の士気は高揚を見せ、後に多くの戦力を多国籍軍へ提供する事によって、後に湾岸戦争のイラクへの勝利にもつながった。