オカール賞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オカール賞
Prix Hocquart
開催国 フランスの旗フランス
競馬場 パリロンシャン競馬場
創設 1861年
2023年の情報
距離 芝2200メートル
格付け G3
賞金 賞金総額13万ユーロ[1]
出走条件 3歳
負担重量 牡馬・せん馬 58kg
牝馬 56.5kg
テンプレートを表示

オカール賞(Prix Hocquart)はフランスのパリロンシャン競馬場で行われる競馬重賞。3歳馬だけが出走できる。2023年の格付けはG3。

概要[編集]

オカール賞は、約1ヵ月後に行われるパリ大賞典の重要な前哨戦である。

2016年まではフランスダービーの前哨戦として開催されていた。

かつてフランスダービーの前哨戦としては、プール・デ・プロデュイと呼ばれる5つの競走(後述)が設定されており、オカール賞はその一つだった。これらのうち、前哨戦を勝ってフランスダービーを制した馬の数は、リュパン賞が32頭で最も多く、次いでオカール賞の27頭が2位である。リュパン賞は2005年に廃止されており、現存する競走としてはオカール賞が最多のフランスダービー優勝馬を出している。

第一次世界大戦以前の優勝馬には、フランスダービーと皇太子大賞(後のロワイヤルオーク賞)を制して二冠馬となったパトリシアン(Patricien)、フランスダービーとパリ大賞典を連覇して二冠馬となったラゴツキー(Ragotsky)、プール・デッセ・デ・プーラン、フランスダービー、パリ大賞典、ロワイヤルオーク賞を制して四冠馬となったパース(Perth)、リュパン賞、フランスダービー、ロワイヤルオーク賞などフランス国内の大レースを総なめにしたメンテノン(Maintenon)、フランスの歴史的名馬サルダナパル(Sardanapale)などが名を連ねている。

その後も、クサール、マシーヌ(Massine)、トウルビヨン、ミューセ(Mieuxce)、クレアヴォヤン(Clairvoyant)、ルパシャ(Le Pacha)、ヴェルソ(Verso)、アルダン(Ardan)、マイラヴ(My Love )、シカンブル(Sicambre)など、各時代のフランスのトップホースがオカール賞を3歳クラシック戦のステップレースとして勝っている。

プール・デ・プロデュイ[編集]

長い間、オカール賞は「プール・デ・プロデュイ(Poules des Produits)」と呼ばれる5競走の1つだった[2]

プール・デ・プロデュイはフランス馬種改良奨励協会(Société d'Encouragement)が、フランスダービー(ジョッキークラブ賞)の前哨戦として定めたもので、ノアイユ賞ダリュー賞リュパン賞、オカール賞、グレフュール賞がこれに当たる[2]

リュパン賞を除いては、出走できる馬には父馬や母馬の産地に制限があった。オカール賞は「フランス産の父馬による産駒」に限定されていて、オカール賞に出走するためには出走馬が生まれるより前の母馬の胎内にいる間に登録しなければならなかった。オカール賞の賞金はこの登録料で賄われていた[2][3]

歴史[編集]

沿革[編集]

  • 1836年 - フランスダービー(ジョッケクルブ賞)創設。
  • 1857年 - ロンシャン競馬場創設。
  • 1861年 - ロンシャン賞(Prix de Longchamps)創設。
  • 1871年 - 普仏戦争の影響で中止。
  • 1885年 - オカール賞に改称。
  • 1902年 - 2400メートルに短縮。
  • 1915-1919年 - 第一次世界大戦のため中止。
  • 1941年 - 第二次世界大戦のため中止。
  • 1943-1945年 - 第二次世界大戦のためトランブレー競馬場で代替開催。
  • 2005年 - 3歳戦の再編に伴い2200メートルに短縮。
  • 2016年 - ロンシャン競馬場の工事のためドーヴィル競馬場で代替開催。
  • 2017年 - 開催場をシャンティイ競馬場に移し、距離を2400メートルに変更[4]
  • 2020年
    • 新型コロナウイルス感染拡大の影響で8月にドーヴィル競馬場で順延開催。
    • せん馬の出走が可能となる[5]
  • 2021年 - 開催場をパリロンシャン競馬場に移し、距離を2200メートルに戻す。
  • 2023年 - G3に格下げ。

ロンシャン賞[編集]

1861年に創設されたこの競走は、当初はロンシャン賞(Prix de Longchamps)と呼ばれていた[2]。創設時の施行距離は2500メートルだった。ロンシャン競馬場は1857年に創設されたばかりだった[6]

普仏戦争の影響[編集]

かねてから対立していたプロイセンに対し、ナポレオン3世は1870年の夏に宣戦布告して1870年戦争(普仏戦争)が始まった。しかし、秋にはフランスは決定的に劣勢となり、ナポレオン3世自らも捕虜となってフランス帝政は瓦解した。1871年を迎えるとパリが砲撃を受けるに至り、降伏した。その後もパリはパリ・コミューンとヴェルサイユ臨時政府との内戦が5月末まで続いた。このため、1871年のロンシャン賞は開催することができなかった[2]

オカール賞へ改名[編集]

1884年に、これまでフランス競馬界に多大の貢献をしたルイ・オカール・ド・テュルト伯爵(Comte Louis Hocquart de Turtot)が死去した。同氏を記念するために、1885年から競走名がオカール賞に改められた[2][7][8]

距離短縮[編集]

当初は2500メートルで行われていたが、1902年にフランスダービーと同じ2400メートルに改められた(フランスダービーも設立当初は2500メートルだったが、1843年から2400メートルとなっていた。)[2]

これ以降、戦争による移転開催などの一時的な例外を除いて、オカール賞は長く2400メートルで行われてきた。2005年にフランスの競馬番組の再編成があり、フランスダービーが2100メートルに短縮され、オカール賞もこの時に2200メートルに短縮された[2]

戦争の影響[編集]

1914年の夏に始まった第一次世界大戦ではフランスは再びドイツ軍による攻撃を受けた。パリも砲撃の対象となった。陸軍は大規模な軍馬の徴発を行おうとしたが、これに反発した馬主や生産者の多くは、馬を国外へ売却したり避難させてしまった[9]。これらの結果、フランス国内での競馬開催は困難になり、戦火のないフランス南部やスペインで競馬が行われるようになった[10]。この間、1915年から1919年のオカール賞は行われなかった[2]

1939年の秋に第二次世界大戦が始まると、当初はドイツとフランスの間では目立った戦闘もなく、1940年の春には競馬が行われると見込まれていた。しかし5月にドイツ軍の侵攻が始まると、一ヶ月でパリは陥落した。このため1940年のオカール賞を含めた春競馬は行われなかった。占領軍は1940年の秋には競馬の再開を許したので、この年の3歳主要戦は秋にまとめて開催された[11]

1941年からは、占領軍のもとで、一応平常通りに競馬が行われた。この時期に競馬の維持に尽力したのが、アントワーヌ・オカール伯爵である(後述)。戦局が変わり、連合軍が挽回をはじめると、パリにも連合軍の空爆が行われるようになった。1943年の春競馬の初頭にはロンシャン競馬場が空爆されて死者が出た[12]。このためこのあとの競馬はトランブレー競馬場で行われるようになった。1944年には連合軍によってパリが解放されたが、ロンシャン競馬場はアメリカ軍の駐屯地として使われることになった。これらによって、1943年から1945年までオカール賞はトランブレー競馬場で行われ、距離も2300メートルで施行された[2]

2005年の再編[編集]

2005年に、フランスの3歳クラシック路線の再編があった。リュパン賞が廃止となり、フランスダービーは従来の2400メートルから2100メートルへ短縮、パリ大賞典は2000メートルから2400メートルへ延長となった。

オカール賞はこれに伴って、従来の2400メートルから2200メートルへ短縮されると共に、日曜日開催から月曜日開催へ移動となった。開催日については、2010年には再び日曜日に戻った。

この2005年のオカール賞に優勝したハリケーンランは、フランスダービーで僅差の2着になったあとアイルランドダービー凱旋門賞に勝った。ハリケーンランはこの年全欧年度代表馬に選出され、さらに世界ランキング1位にランクされた。

2017年からは開催場をシャンティイ競馬場に移し、距離を2400メートルに変更する。更に2021年からは開催場をパリロンシャン競馬場に移し、距離を2200メートルに戻すことになった。

記録[編集]

フランスダービーとの関連[編集]

2012年までに、オカール賞を勝ってフランスダービーを制した馬は27頭いる。これは、リュパン賞の32頭に次いで2番めに多い。オカール賞とフランスダービーを制覇した最初の馬は1867年のパトリシアン(Patricien)で、直近のものは1986年のベーリング(Bering)である。このほか、オカール賞を勝ってフランスダービーで2着になったものが9頭、3着になったものが5頭いる[2]

牝馬の成績[編集]

第一次世界大戦前までは、オカール賞に牝馬が出走するのは珍しいことではなかった。優勝馬も8頭おり、うち3頭はフランスオークス(ディアヌ賞)にも勝っている[2]

しかし、近年は牝馬の出走自体が稀で、1935年に3着になったクルディテ(Crudite)を最後に、好走したものはいない[2]

歴代優勝馬[編集]

  • 距離はメートル
  • 表中の「*」は日本輸入馬を示す。(多くは種牡馬だが、ジャパンカップ出走のため一時的に輸入されたものも含む。)
  • 「仏ダービー」欄は、フランスダービー(ジョッケクルブ賞)に優勝したものに◯を付した。
施行年 距離 優勝馬 仏ダービー 備考
1861 2500 Good By ロンシャン賞
1862 2500 Allez y Rondement
1863 2500 Villafranca
1864 2500 Gedeon
1865 2500 Matamore
1866 2500 Victorieuse
1867 2500 Patricien
1868 2500 Le Bosphore
1869 2500 Pandour
1870 2500 Bigarreau
1871 普仏戦争のため中止
1872 2500 Faublas
1873 2500 Absalon
1874 2500 Succes
1875 2500 Saint Cyr
1876 2500 Filoselle
1877 2500 Vesuve
1878 2500 Stathouder
1879 2500 Salteador
1880 2500 Versigny
1881 2500 Serpolette
1882 2500 Dictateur
1883 2500 Farfadet
1884 2500 Silex
1885 2500 Extra オカール賞に改称
1886 2500 Upas (注1)
1887 2500 Vanneau
1888 2500 Saint Gall
1889 2500 Aerolithe
1890 2500 Yellow
1891 2500 Vin-sec
1892 2500 Fontenoy
1893 2500 Ragotsky
1894 2500 Polygone
1895 2500 Roitelet
1896 2500 Kerym
1897 2500 Canvass Back
1898 2500 Le Roi Soleil
1899 2500 Perth
1900 2500 Ivry
1901 2500 Saint Armel
1902 2400 Maximum
1903 2400 Ex Voto[13]
1904 2400 Orange Blossom
1905 2400 Brienne
1906 2400 Maintenon
1907 2400 Pitti
1908 2400 Lieutel
1909 2400 Mehari
1910 2400 My Star
1911 2400 Faucheur
1912 2400 Zenith II
1913 2400 Pere Marquette
1914 2400 サルダナパル
1915 第一次世界大戦のため中止
1916 第一次世界大戦のため中止
1917 第一次世界大戦のため中止
1918 第一次世界大戦のため中止
1919 第一次世界大戦のため中止
1920 2400 Caliban
1921 2400 クサール
1922 2400 Joyeux Drille
1923 2400 Massine
1924 2400 Vineuil
1925 2400 Belfonds
1926 2400 Soubadar
1927 2400 Flamant
1928 2400 Palais Royal
1929 2400 Hotweed
1930 2400 Veloucreme
1931 2400 トウルビヨン
1932 2400 Bishop's Rock
1933 2400 Le Grand Cyrus
1934 2400 Maravedis
1935 2400 Louqsor
1936 2400 Mieuxce
1937 2400 Clairvoyant
1938 2400 Royal Gift
1939 2400 Irifle
1940 2400 第二次世界大戦のため中止
1941 2400 Le Pacha
1942 2400 Hern the Hunter
1943 2300 Verso ル・トランブレー競馬場で開催
1944 2300 Ardan ル・トランブレー競馬場で開催
1945 2300 Chanteur ル・トランブレー競馬場で開催
1946 2400 Adrar
1947 2400 Timor
1948 2400 My Love
1949 2400 Val Drake
1950 2400 L'Amiral
1951 2400 Sicambre
1952 2400 Auriban
1953 2400 Fort de France
1954 2400 Prince Rouge
1955 2400 Rapace
1956 2400 Floriados
1957 2400 Argel
1958 2400 San Roman
1959 2400 エルバジェ
1960 2400 Angers
1961 2400 *ムーティエ
1962 2400 Val de Loir
1963 2400 Le Mesnil
1964 2400 Free Ride
1965 2400 ルリアンス
1966 2400 Hauban
1967 2400 Frontal
1968 2400 Valmy
1969 2400 Beaugency
1970 2400 Gyr
1971 G2 2400 Bourbon
1972 G2 2400 Talleyrand (注2)
1973 G2 2400 Margouillat
1974 G2 2400 Poil de Chameau
1975 G2 2400 Val de l'Orne
1976 G2 2400 Grandchant
1977 G2 2400 Montcontour
1978 G2 2400 Frere Basile
1979 G2 2400 Le Marmot
1980 G2 2400 Mot d'Or
1981 G2 2400 Rahotep
1982 G2 2400 Cadoudal
1983 G2 2400 Jeu de Paille
1984 G2 2400 ダルシャーン
1985 G2 2400 *ムクター
1986 G2 2400 ベーリング
1987 G2 2400 Sadjiyd
1988 G2 2400 *ナスルエルアラブ
1989 G2 2400 *ダンスホール
1990 G2 2400 Top Waltz
1991 G2 2400 Pistolet Bleu
1992 G2 2400 Adieu au Roi
1993 G2 2400 Regency
1994 G2 2400 Vadlawys
1995 G2 2400 Rifapour
1996 G2 2400 Arbatax
1997 G2 2200 Shaka シャンティイ競馬場で開催
1998 G2 2200 Sayarshan シャンティイ競馬場で開催
1999 G2 2200 Falcon Flight シャンティイ競馬場で開催
2000 G2 2200 Lord Flasheart シャンティイ競馬場で開催
2001 G2 2400 Maille Pistol
2002 G2 2400 Khalkevi
2003 G2 2400 Coroner
2004 G2 2400 Lord du Sud
2005 G2 2200 ハリケーンラン
2006 G2 2200 Numide
2007 G2 2200 Anton Chekhov
2008 G2 2200 Democrate
2009 G2 2200 Wajir
2010 G2 2200 Silver Pond
2011 G2 2200 Prairie Star
2012 G2 2200 Top Trip
2013 G2 2200 Tableaux
2014[14] G2 2200 Free Port Lux
2015[15] G2 2200 Ampere
2016[16] G2 2200 Mekhtaal ドーヴィル競馬場で開催
2017[17] G2 2400 Ice Breeze この年からシャンティイ競馬場で開催
2018[18] G2 2400 Nocturnal Fox
2019[19] G2 2400 Al Hilalee
2020 G2 2500 Port Guillaume
2021[20] G2 2200 Bubble Gift
2022[21] G2 2200 ラストロノーム
2023[22] G3 2200 First Minister
  • (注1)Upasのフランスダービー優勝はデッドヒート(同着)によるもの。
  • (注2)Talleyrandは後にHakodateと改名している。

騎手[編集]

調教師[編集]

馬主[編集]

  • アンリ・デラマール(Henri Delamarre) - 7勝

競走名の由来[編集]

ロンシャン賞は、1884年に死去したルイ・オカール伯爵を追悼するため、1885年からオカール賞と改称された。

ルイ・オカール伯爵のほかに、フランス競馬界にはオカール姓の重要な人物が2名いる。ルイ・オカール伯爵の父であるエデュアール・オカール伯爵と、甥であるアントワーヌ・オカール伯爵である。

ルイ・オカール伯爵[編集]

ルイ・オカール・ド・テュルト伯爵(Louis Hocquart de Turtot、1823-1884)は、砲兵大尉としての軍役に就いた後、1861年にフランス競馬会(the board of French horseracing)メンバーに選ばれ、1876年には創立委員となった[2]

ルイ・オカール伯爵は、1872年から1884年に死去するまで裁決委員を務めた。また、ドーヴィル競馬場の理事長と採決委員長も務めた。彼の名はドーヴィル競馬場近くの交差点名に遺されている[2]

エデュアール・オカール伯爵[編集]

ルイ・オカール伯爵の父、エデュアール・オカール伯爵(Comte Edouard Hocquart、1792-1852)は、ルイ18世シャルル10世侍従だった。 [2] エデュアール・オカール伯爵は、フランス北西部の沿岸にあるセーヌ=インフェリウール県ヴァルモンに大牧場を所有していた[2]

エデュアール・オカール伯爵は、1836年にヘンリ・シーモア卿が辞任した後、フランス競馬会の創立委員となった[2]

アントワーヌ・オカール伯爵[編集]

アントワーヌ・オカール・ド・テュルト伯爵(Antoine Hocquart de Turtot、1872-1954)は、ルイ・オカール伯爵の甥にあたる[2]

アントワーヌ・オカール伯爵は騎兵隊長を務めたのち、1921年に奨励協会のメンバーに選出され、裁決委員を務めた。1928年からは裁決委員長を務めた。フランス競馬場連盟(National Racecourse Federation)の理事長を20年務めた[2]

1920年代の終わりから、世界的な不況がフランスの競馬界にも暗い影を落としていた時代で、アントワーヌ・オカール伯爵は経営の改善のため様々な対策を打ち出した[2]

伯爵は、ロンシャン競馬場に初めて電光掲示板を設置し、2歳戦の整備を行った。また、初めてスポンサー付きのレースを創設したり、国営宝くじと合同でスウィープステークスを導入した。これは、馬券に馬番のほかに抽選番号がついており、両方が的中した場合に大きな払い戻しが受けられるというものだった。さらに、1934年にはロンシャン競馬場のナイター開催を実現した[2]

しかし、第二次世界大戦が勃発し、パリがドイツ軍に占領されると、競馬の開催にはますます難題が増えた。伯爵は競走馬の確保や輸送、飼料の確保などに尽力し、競馬開催の持続に貢献した[2]

戦後に伯爵が行った改革のうち最大のものは、フランス競馬の外国馬への開放である。もともとフランス産馬の改良を目的とした奨励協会の創設以来、フランス国内の競馬は、パリ大賞典を例外として外国馬の出走を拒んでいた。第二次大戦中のイギリスは競馬産業が大きく衰退したのに対し、フランスは戦争中も馬産と競馬の維持に成功したことで、戦後のイギリス競馬はフランス馬が席巻した。イギリスからは、フランスの競馬がイギリスに開放されていないことに対する不満の声が出た。これを受け、アントワーヌ・オカール伯爵は、もはやフランス馬はイギリス馬に劣らないとして、1946年に国内の競馬を外国馬に開放することを決断した[2]

伯爵は20年にわたって理事長を務めた。その任期の長さは歴代2位にあたる[23]。伯爵は、1948年にド・ガネー侯爵(Marquis de Ganay)に奨励協会の理事長の職を譲った。その後も、1954年に83歳で死去するまで、奨励協会の委員を務めた[2]

エピソード[編集]

1933年[編集]

1933年にオカール賞を優勝したのは、ルグランシリュス(Le Grand Cyrus)という牡馬だった。書面の上では、ルグランシリュスの馬主はエクアドル共和国の元外交官ということになっていたが、実際はスタヴィスキーというユダヤ人の銀行家の所有であることが発覚した。スタヴィスキーはフランス政界を巻き込んだ巨大詐欺事件の中心人物で、スキャンダルが表沙汰になると逃亡したが、1934年1月に別荘で頭に銃弾を受けて倒れているところを発見され、すぐに死亡した。警察は自殺と発表したが、世論は口封じのために殺されたとみた。事態は紛糾し、死者が出るほどの暴動が起こり、1週間あまりの間に2度も内閣が総辞職するほどの混乱となった。ルグランシリュスの方は、スタヴィスキーの「自殺」をもって馬主登録を抹消された[24]

脚注[編集]

  1. ^ ICSC 2014 France2014年12月12日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y オカール賞の歴史” (英語). フランスギャロ. 2013年5月20日閲覧。
  3. ^ ノアイユ賞の歴史” (英語). フランスギャロ. 2013年3月9日閲覧。
  4. ^ 2017年 仏競馬概要についてnetkeiba.com、2017年6月18日閲覧
  5. ^ フランスギャロ、G1ムーランドロンシャン賞ら7重賞をセン馬に開放へ”. JRA-VAN (2019年7月10日). 2022年1月23日閲覧。
  6. ^ 1875年のロンシャン賞を伝える1875年4月5日の新聞記事(Le Figaro紙)-2013年5月16日閲覧。
  7. ^ 1884年のロンシャン賞を伝える1884年4月7日の新聞記事(Le Figaro紙)-2013年5月16日閲覧。
  8. ^ 1885年のオカール賞を伝える1885年4月13日の新聞記事(Le Figaro紙)-2013年5月16日閲覧。
  9. ^ 『フランス競馬百年史』p52
  10. ^ 『フランス競馬百年史』p53
  11. ^ 『フランス競馬百年史』p116
  12. ^ 『フランス競馬百年史』p122
  13. ^ Ex Voto、Ex-Votoの表記があるが、前者を採用した。
  14. ^ 2014年レース結果 - racingpost、2014年5月12日閲覧
  15. ^ 2015年レース結果 - レーシングポスト、2015年7月1日閲覧
  16. ^ 2016年レース結果 - レーシングポスト、2016年5月16日閲覧
  17. ^ 2017年レース結果 - レーシングポスト、2017年6月18日閲覧
  18. ^ 2018年レース結果 - レーシングポスト、2018年6月17日閲覧
  19. ^ 2019年レース結果”. racingpost (2019年6月16日). 2019年6月17日閲覧。
  20. ^ 2021年レース結果”. レーシングポスト (2021年5月24日). 2021年5月25日閲覧。
  21. ^ 2022年オカール賞”. レーシングポスト (2022年5月26日). 2022年5月29日閲覧。
  22. ^ 2023年オカール賞レーシングポスト、2023年5月26日閲覧
  23. ^ 歴代1位は1849年から1889年のラ・ロシェト(La Rochette)男爵
  24. ^ 『フランス競馬百年史』p95

参考文献[編集]

外部リンク[編集]