イオン・アントネスク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Foteigf (会話 | 投稿記録) による 2012年1月11日 (水) 14:49個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎外部リンク)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

イオン・アントネスク

イオン・ヴィクトル・アントネスクIon Victor Antonescu, 1882年6月14日 - 1946年6月1日)は20世紀前半のルーマニアの軍人・政治家。(王族以外で3名しかいない)元帥。彼の政権下で副首相を務めたミハイ・アントネスクは兄弟ではなく、遠縁の親戚関係。

ピテシュティ出身。父は大地主で、大尉だった。フランスで軍事教育を受ける。1907年の農民蜂起の鎮圧に参加。1913年のバルカン戦争時、街道の要所を少数の兵力により守り向いた功績により、ミハイ勇敢公勲章騎士十字章を受勲。

第一次世界大戦時、参謀将校としてマラシュティ等の反攻作戦を立案した。

第一次世界大戦と戦後のハンガリー・ソビエト共和国に対する軍事干渉(ハンガリー・ルーマニア戦争)に参加し、ブダペスト攻防戦で功績を挙げた。

1923年から駐パリ駐在武官となりユダヤ系フランス人と結婚する。1924年から駐ロンドン駐在武官。1926年に再度ルーマニア王立陸軍騎兵学校長(1920年-22年にも就任)、1927年から29年と1931年から33年に参謀大学校の校長を2回務め、連隊長、師団長勤務を経た後、1933年王立陸軍参謀総長となり、ルーマニア王立軍の近代化を計る。1937年からいくつかの内閣で国防相。しかし鉄衛団と関係を持ったため、1937年に投獄される。釈放後、ソビエト連邦への自国領土の割譲に反対してカロル2世と対立し、再び投獄される。1940年には釈放され、カロル2世を退位させて首相に就任。国民投票の末、国家指導者(Conducător。総統とも訳される)の地位に就き、枢軸外交を推進した。

鉄衛団が政権当初の支持基盤ではあったが、彼らの行き過ぎたテロルを警戒し、次第に距離を置くようになった。ドイツの支持を得ていると考えていた鉄衛団は、1941年1月20日に反乱を起こしたが、ヒトラーはアントネスクを支持し、反乱は22日に鎮圧された。

また、ドイツ側の要求により約4万人のルーマニア国内に住むユダヤ人の強制収容所への移送に協力し、ホロコーストに加担している。アントネスク体制下では、2万5千人のロマ人が国外に追放された他、約27万人のルーマニア系ユダヤ人とウクライナ系ユダヤ人が虐殺されるか強制収容所で死亡した。

独ソ戦が始まると枢軸国側に立ち、ルーマニア軍のオデッサ侵攻スターリングラード、カフカス侵攻を指揮した。スターリングラードにおけるルーマニア軍の守備戦線崩壊は、この戦いでのドイツ軍の降伏・敗北への大きな転回点となる。以後、枢軸軍は劣勢に陥り、反攻作戦に転じた赤軍が迫ると、1944年8月23日の宮廷政変で国王ミハイ1世により解任、失脚。戦後、ミハイ・アントネスクらと共にソ連に捕らえられてルーマニア共産政権に引き渡され、戦犯として銃殺刑に処された。

彼は一人称を使わず替わりに自分の事を「アントネスク」と言ったという。

2006年12月、トライアン・バセスク政権により名誉回復された。しかし、在任時の反ユダヤ政策や対独協力を通じて、ルーマニア国内に住むユダヤ人の移送や虐殺を行っていたことから、イスラエル政府や強制移送されたユダヤ人の生存者団体から非難された。

外部リンク

先代
Ion Gigurtu
ルーマニア王国首相
1940年 - 1944年
次代
コンスタンチン・サナテスク

Template:Link FA