おつやの方

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おつやの方(おつやのかた) は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。織田信定の娘で、織田信長の年齢の近い叔母にあたる。最初は美濃国人遠山景任の妻、後に武田氏重臣の秋山虎繁の妻。修理夫人、艶、岩村殿、岩村御前ともいわれる[1]。最初の夫の遠山景任が死去し、秋山虎繁と再婚するまでの間は、事実上の岩村城主となっていた。

生涯

尾張国の武将・織田信定の娘として誕生。東美濃遠山氏の宗家の当主である遠山景任に嫁いだ。

元亀3年8月14日(1572年9月21日)景任は子供が無いまま病死したため、信長は息子の御坊丸を岩村遠山氏の後継として送り込んで、おつやの方を、事実上の岩村城主とした。

同10月、甲斐国武田信玄西上作戦を開始する。信玄はそれまで各地に上洛する旨を喧伝しており、山県昌景秋山虎繁(信友)の別働隊3,000を三河に向かわせ、自身は遠江に出陣した。

同11月14日、秋山虎繁は武田氏の軍勢で岩村城を取り囲み、おつやの方と婚姻すれば、岩村城に籠る者達を助命するという条件を突きつけた。おつやの方は、当時、織田氏が緒戦で忙しく救援が待てなかったため、その条件を受け入れて岩村城を開城し武田氏の軍門に下った。岩村城は武田氏のものとなり、信玄は配下の下条信氏を送り込んだ(『当代記』)。また11月14日に信玄は遠山氏に岐阜の信長を牽制せよと命じており、また12月12日には遠藤加賀守に岩村城へ兵を増援すると伝えている。

11月15日に、信長は遠山佐渡守に岩村遠山氏が武田氏に臣従したにも関わらず織田方に残って忠節を尽くしたことを賞し日吉郷・釜戸本郷を与えている。

元亀4年(1573年)2月下旬に、織田掃部の肝煎りで、おつやの方と秋山虎繁との婚姻が行われた。その後、御坊丸は人質として甲斐に送られた。(甲陽軍鑑)。

天正3年(1575年)織田氏と徳川氏の両軍は長篠の戦い武田勝頼の軍勢を敗ると、織田信忠らが岩村城を包囲した。勝頼は岩村城を救援するべく出陣したが、到着するより前の11月21日、岩村城に籠城していた秋山が率いる武田方は助命を条件に降伏した(天正3年(1575年)の岩村城の戦い)。

天正3年(1575年)11月21日1575年12月23日)、織田氏は、秋山虎繁・大嶋杢之助座光寺為清が降伏し、赦免の参礼に来たところを捕らえて岐阜城近くの長良川の河原へ連行し、そこでおつやの方共々が、逆さ磔の極刑に処された。おつやの方は処刑の際に声を上げて嘆き悲しみ「我、女の弱さの為にかくなりしも 叔母をかかる非道の処置をなすは、必ずや因果の報いを受けん」と絶叫しつつ果てたという。信長は、自分の叔母のおつやの方を自らの妻にして岩村城を乗っ取り、息子の御坊丸を人質として甲斐に送った秋山虎繁と、虎繁と結婚して武田方に寝返った、おつやの方を憎悪していたともされる。[要出典]

明暦3年(1657年)に岩村藩主となった丹羽氏純は処刑された秋山虎繁と、妻のおつやの方の霊の祟りにより歴代の岩村藩主が遭難したり後嗣が夭折すると言われていたため、その祟りを鎮めるために、妙法寺 (恵那市)の境内に、天台宗の恵照山 五仏寺を建て、丹羽氏明の母・香樹院の兄が剃髪して住職となった。五仏寺は丹羽氏が国替となった際に廃寺となったが、現在、妙法寺の境内には、おつやの方と秋山虎繁を供養する「まくら冢」が残っている。

余談

岩村町では、おつやの方にちなみ、1992年から本通り沿いの家々で家族の女性の名前を記したノレンを掛けたり、地元の醸造会社岩村醸造が日本酒を売り出したりして、地域おこしに活用している[2]

出典

  1. ^ 川口素生『戦国軍師人名事典』P72
  2. ^ 朝日新聞「岩村城 結婚受け入れた女城主」

参考文献

書籍

関連項目