Wikipedia:秀逸な記事の選考/法解釈 20110815

法解釈[編集]

賛成/条件付賛成/保留/反対 0/0/1/1 この項目の選考期間は、2011年11月30日 (水) 14:19 (UTC)(2011年11月30日 (日) 23:19 (JST))までです。

(ノート) 《推薦理由》 自薦です。7月の月間強化記事賞及び良質な記事に、Wikipedia:査読依頼/法解釈 20110710Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/法解釈 20110803でいただいたご意見を反映させ加筆・修正を加えたものです。

本記事においては、百科事典としての性質及び世界的観点を保つことに苦慮しつつ、門外漢へのわかりやすさ・興味深さと、専門性・内容の質量の高さの二兎を負うことを心がけました。テーマの性質上、ありとあらゆる観点から、未来永劫無限の酷評・罵倒・冷笑を浴びせることが可能であるとは思いますが、キリスト教のように抽象的・包括的な大きなテーマや、法律系の記事に秀逸な記事・良質な記事が極端に少ない現状において、一つのモデル・ケースを提供することができると考えます。

なお、参考文献はあくまでもWikipedia:検証可能性の趣旨から要求されるものであるということ、及びキリが無くなってしまうということから、外国語文献は現時点で一切取り上げていませんが、それでもありとあらゆる文における100%を大幅に上回る出典の明記は全wikipedia中でもトップクラスだと思います。--Phenomenology 2011年8月24日 (水) 11:07 (UTC)[返信]

コメントまず、このような記事を執筆されたPhenomenologyさんに敬意を表します。わたくしはかつて法学徒ではありましたが、さほど学術的に究めてはいないので大きなことはいえませんが、法学分野は、あまり様々な立場から記載をしてしまうと、それだけでNPOVに抵触しかねず、バランスがとれた執筆が必要になると思われるところ、その点でも満足がいくのではないかと考えます。その上で気になった点を指摘させていただくならば、冒頭の定義~法解釈の対象の項目まで、特に冒頭の定義文について、法学になじんでいない一般の方に対してもわかりやすい定義文にできないでしょうか。現在の冒頭文は、確かに定義としては十分だと思うのですが、その分、ある程度法学を勉強した人にしか通じない文章、のような気がするのです。たとえば冒頭文に、「法律や、判例などが意味することを明かにすることを言う。一般的には、裁判で明らかにすることが多い」などと加えるのは如何でしょうか。--yuh-ja 2011年8月31日 (水) 14:19 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。ご提案の件に関して申し上げますと、ありとあらゆる文章に出典の明記を徹底している中、よりによって冒頭部分に出典の裏付けの無い文を載せるわけにはいきません(Wikipedia:独自研究は載せない)。
また、例えば行為無価値とは何でしょうか、これを「定義文」のみで「法学になじんでいない一般の方に対してもわかりやすい」説明にせよというのは無理難題です。あるいは、とは何でしょうか、神学ないし宗教学に馴染んでいない一般人にとってもイメージは容易ですが、その定義は簡単ではなく、定義のみでその本質を理解することなど到底できないでしょう。とりわけ、法律の定義については、正確を重んじれば通俗的な理解と乖離する傾向が強く(文理解釈の問題点の節参照)、そのために例えばという概念に、
「船とは、水、空または陸を航行する一定の建造物にして、航行とは、他力に依りて自在に自動するが如き情態に在ることなり」(我妻(2005)2頁、元ネタは松波仁一郎博士)
という定義が与えられたりするのです。解釈者が千人いれば千通りの定義が考えられる中で、法解釈については我妻栄博士の定義のみが載っているのは不満かもしれませんが、定義に激しい対立があるというわけでもない以上、定義を増やせば良いというものでもないでしょう。
もとより、「わかりやすい」記事が良いのは当然ですが、本文中にも言及がありますように、何をもって「わかりやすい」というかは人によって一様ではありません。何となくわかったような気にさせる説明的なわかりやすさが良いのか、正確・簡潔なものがわかりやすいのかは、しばしば相互に矛盾します(論理解釈の問題点の節参照)。
そこで、wikipediaの趣旨に遡って考える必要があります。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかによれば、「ウィキペディアは百科事典的な参照資料であって、教科書ではありません。ウィキペディアの目的は事実の提示であって、主題について教えることではありません」。一方で、「ウィキペディアは・・・学術雑誌ではありません」。「ウィキペディアの記事を、読者がその主題の分野に精通しているという前提で書いてはなりません・・・記事の導入部や冒頭部の数段落における概要説明は、平易な言葉遣いと概念で書き、教育を受けていればその分野に関する特定の知識をまったく有せずとも理解できるようにし、その後、より詳細な説明に進むようにします」とあります。このことから、冒頭では最低限の定義のみを与えたうえで、直ぐ後の「概要」で画像(馬つなぐべからず)を使ってイメージを持たせると共に、法的安定性と具体的妥当性の調和という命題を立てて、本文全体を貫く、という構成にしてあります。
(あらゆる規範ないし法則に解釈が必要となる、ということは、幾何学や聖書解釈学が法解釈学に重大な影響を及ぼしていることからすれば、特筆性があり、また「馬つなぐべからず」自体は本文ではなく画像の説明文に追いやっていることからは、不要な教科書的記述とはいえないでしょう。)
なお、秀逸な記事の目安にも、「詳しくない読者にもその主題について理解できるように、わかりやすく書かれている。ただし、高度に専門的な主題を扱ったものであれば、関連記事を読んで理解していることを前提にするのは問題ない」とあります。法解釈が高度に専門的かどうかはわかりませんが、Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/法解釈 20110803によれば、門外漢からみても「普通の日本語話者が理解するのにそこまで困難ではない」とありますし、その後の加筆修正(画像移動、表現の修正等)により、より「わかりやすく」なったものと考えています。
それでもなお、テーマがテーマだけに、読み手の百人が百人何らかの不満を感じることと思いますが、初心者にも易しく、わかりやすく書いて欲しいという要請と、百科事典としての性質を守りつつ、教科書的・説明的にならずに簡潔に記述せよという要請の2つを完璧に満たすことは不可能です。自分の理解と違うことが書いてあるからけしからんという批判もあるでしょうし(Wikipedia:中立的な観点参照)、どれほど加筆修正を重ねたところで、批判の余地のあることは避けられません(Wikipedia:完璧な記事参照)。いかなる記事にもそうそう見劣りするとは思いませんが、テーマの性質上賛成票が一票たりとも入らないのではないかという危惧さえ覚えるのです。--Phenomenology 2011年8月31日 (水) 23:59 (UTC)[返信]
追記。Wikipedia:素晴らしい記事を書くにはによると、「冒頭の段落でよくみられる問題は、専門用語を使った説明文で始まっていることです。あなたにとって説明の必要もない専門用語は、読者にとっては必ずしも明らかではありません」とありますので、法源についての定義を「冒頭」に移動することで対処しました。なお、特に判例によって慣習法の存在が客観的に認識可能になるという要素があるのは確かですが、それは判例法か慣習法についての説明に加えるべきもので、あまり説明的な文を「冒頭」部分に加えるべきではないと考えます。なぜなら、同じくWikipedia:素晴らしい記事を書くにはによりますと、「記事の冒頭の段落は、明確で簡潔な、1行か2行の説明で始めてください」とあるからです。冒頭部分が長々と続く記事も少なくないようですが、あまり感心できるものではありません。--Phenomenology 2011年9月1日 (木) 23:50 (UTC)[返信]
コメント法源の説明を加えるだけでずいぶん印象が変わりますね。すばらしいと思います(思い至りませんでした…)。で、冒頭文の提案ですが、第二文の法源の説明を第一文に取り込みませんか?具体的には、「法解釈(ほうかいしゃく)とは、各種の法源(法律、慣習法、判例など、法の存在する形式などをいう。)について、その内容を確定することをいう。」のようにまとめてしまうこともできるかと思います。--yuh-ja 2011年9月2日 (金) 14:10 (UTC)[返信]
ご提案ありがとうございます。非常に興味深いご提案ですが、文中に括弧書きがある場合、括弧内はいったん飛ばして読まれるのですから(長谷川(2008)196頁)、括弧書きを使って無理に一文にまとめようとするとかえって可読性が損なわれてしまうと考えます。例えば、上述の「船」の定義文でも、「船」の定義をするのに「船」と「航行」の定義を二つ並べるという形になっていますが、括弧書きは使っていません。この場合、もし使ってしまうととんでもない悪文になると思いませんか?ガイドラインWikipedia:言葉を濁さないによると、「入り組んだ文」は推奨されていませんから(民法改正研究会・加藤(2009)12頁参照)、「入り組んだ文」になるおそれのある括弧書きはできるだけ使うべきでないと考えます。Wikipedia:表記ガイド#括弧類にも、「括弧類は多用しないでください」とあります。
また、仮に括弧を使うとしても、ご提案の「法律、慣習法、判例など」は蛇足です。「など」は同じくWikipedia:言葉を濁さないに抵触するおそれがありますし、「慣習法、判例」法は「専門用語」ですから、それでは二重括弧が必要になってしまうのです。--Phenomenology 2011年9月3日 (土) 14:22 (UTC)[返信]
  • 保留 現時点では賛否を投じませんが、コメント。長文ですが、改善すべき点は2点のみです。
「わかりやすく書かれている」「完成度が高い」について
情報量、充実度、ともに文句無しではありますが、気になった点が2点あります。
まず1点目(追記:この問題については、既に少し加筆・修正しています。後述)--かんぴ 2011年9月5日 (月) 14:34 (UTC)、構成の問題なのか、表現の問題なのかわかりませんが、「学理的解釈」の用法に混乱が見られます。有権解釈が多義的であることはきちんと述べられていますが、それに対応した形で必然的に学理解釈も多義的になる(「『立法的解釈』の対概念」or「『国家機関による解釈』の対概念」)にもかかわらず、その使い分けができていません。節区分や冒頭の定義(「個々の解釈者が法令の意味を判断し、明らかにすること」)、さらには解釈手法の節(文理解釈と論理解釈)については、「立法的解釈に対する概念としての学理的解釈」の意味で使われているのに対し、「学理解釈の問題点」節は、「学者が行う解釈=学説」すなわち、「『国家機関による解釈』に対する概念としての学理的解釈」の問題点が述べられています(換言すれば、裁判所が行う解釈は「学理的解釈」に含まれないことになっている)。[返信]
文理解釈や論理解釈というのは、決して「学者が行う解釈手法」の分類ではありませんし、「立法的解釈と学理的解釈」という区分は「判例と学説」の区分とは一致しませんので、節区分やその定義を維持するのであれば、「学理的解釈の問題点」として、「学説の問題点」を説くのは不適切です。逆に、「学理的解釈」を「有権解釈=国家機関(立法・行政・司法)による解釈」の対義語(=「学者による法解釈」の意味)として使うのであれば、節の区分のほうがおかしいことになります。なぜなら、「(学者による法解釈の意味での)学理的解釈」と対になるのは「立法的解釈」ではなく「(国家機関による解釈の意味での)有権解釈」であるし、後に続く文理解釈や論理解釈は、「『(学者による法解釈の意味での)学理解釈』の分類」ではないからです。
要するに、「有権解釈/学理的解釈」の区分を「立法者による意味の確定/実務家や学者による意味の解釈」の区分として使うのか、「国家機関による解釈/学者による解釈」の区分として使うのか、きちんと整理して記述すべきということです。用例としてはどちらも見られますが、基本的には現在の本文の節区分を維持しつつ、節区分の定義に沿っていない意味で使われている部分(例えば、先ほど述べた「学理的解釈の問題点」という節で「学者による法解釈の問題点」が述べられている部分など)を直すという作業をするのが手っ取り早いと思います。
(改善案)ひとつの案として、「法解釈の対象」と対になる形で、「法解釈の主体」節でも作って、「(『国家機関による解釈』の意味での)有権解釈」の話や、「学説(『学者による法解釈』の意味での学理解釈)」の話は別建てにした方がいいかもしれません。そして、それ以外の部分では、「立法的解釈=有権解釈=立法者が立法により意味内容を確定させる作業」「学理的解釈=裁判所を始めとする国家機関や実務家、学者が法の意味を確定する作業」という区分で一貫させるべきでしょう。
2点目。私が決定的に気になったのは、「法解釈の対象」節です。良質な記事の選考の際にゴーヤーズさんが述べておられることとも重複しますが、この節に書かれていることは、法解釈の対象となり得るか否か、換言すれば、それらの規範が「法源となるか」あるいは「どういった性質の法源か」という話に重点が置かれすぎているという印象があります。平たく言うと、初めから読んでいくと、途中で「あれ?これって『法源』の記事だったっけ?」と思うような記述が続いています。解釈技法の話でいくらでも書ける成文法解釈と違い、(判例法解釈はともかく)慣習法解釈について何を書くべきなのか、私には見当もつかないので、ここまで分量を膨らませられたのは感服しますが、イメージ的には「『慣習法“解釈”』の解説」であるべきなのに「『“慣習法”解釈』の解説」になっている、といった感じです。なので、「これって、法源で書くべきことなのでは?」という疑問が出てくるわけです。また、「『“慣習法”解釈』の解説」ではなく、「『慣習法“解釈”』の解説」をするにしては、「刑法における慣習法」だとか「行政法における慣習法」だとか、「分野別の慣習法で分類した節」の区分が細かすぎるという感じもします。また、この構成でいくなら、「行政法における判例法」とか「刑法における成文法」とかも必要になってきて、なぜそういう節がないのか、という疑問も出てきます(で、これを解決するには、さらに細かくサブサブセクションが増えていく)。
細かく節を分けているから、物足りなさを埋めるために法源そのものの解説が過剰になったのか、逆に、法源そのものの解説が増えたからサブサブセクションも増えたのか、いずれにせよ「法解釈の対象=法源」そのものの記述が肥大化している状況は、この記事が、「法解釈の対象=法源」についての記事ではなく、「法解釈」についての記事であるという観点からは問題があると思います。
(改善案)最初、「法解釈の対象」節を丸ごと法源へ転記してしまってはどうだろう?と考えたのですが、おそらく「慣習法」の話と「慣習法解釈」の話は切っても切れないもので、そういうわけにもいかないのでしょう。そこで、ふと思ったのですが、学理的解釈の次の節に「各分野における法解釈」節でも作り、現在、「刑法における慣習法」「刑法における判例法」に書かれている内容を、「刑法の解釈」としてまとめてはいかがでしょうか。そうすれば「刑法における慣習法」「刑法における判例法」「刑法における成文法」等と細かくサブサブセクションを作る必要はないし、記述が分散しているせいで繰り返しになっている「罪刑法定主義の下では云々」という記述を一括して説明できます(=過剰な「法源そのもの」の解説を減らすことになる)。また、成文法解釈の際に慣習を考慮するというのは、厳密にいえば成文法の解釈の話であって慣習法解釈ではないですが、括りが「刑法の解釈」であれば、そういう細かいことを考えずに済みます。行政法についても同様に、「行政法における慣習法」とか「行政法における判例法」とか細かく分けるより、「行政法の解釈」という括りで記述したほうが、「慣習法」でも「判例法」でもない行政規則による解釈(解釈基準や解釈規則)とその問題なんかも一緒に解説できます。民法、国際法、手続法等も同様です。そうすると、「慣習法」節の下にあえて「慣習法解釈の問題点」節を作ったり、「判例法」節の下に「判例法解釈の問題点」節を作る必要もなくなります。
(まとめ)上記2点さえ改善されれば、賛成票を入れてよいと思います。現時点で 条件付賛成でもよいのですが、条件付き賛成というのは、「あと少し手を加えれば賛成しても良いとき」らしいので、2点の改善がどれくらいの作業を要するのか分からないので保留票とします。情報量や参考文献の量としては、これ以上増えなくても十分すぎるほど秀逸な記事のレベルに達していると思います。--かんぴ 2011年9月5日 (月) 11:14 (UTC)[返信]
取り急ぎ、第1点目の問題につきこちらで加筆・修正しました。とりあえず、手元にある文献をあさってみたのですが、「国家機関による解釈=有権解釈」に対立する概念としては「私解釈」とする(古い)文献がありましたので、それに準拠しています。この「私解釈」がまさに「学者や弁護士のする解釈」なので、「学理的解釈の問題点」節を私解釈の解説に移行しました。ただ、「学理的解釈」という語を、この「私解釈」の意味で使うこともあるわけですが、信頼できる出典が見つかりませんでしたので、そういう用法はひとまず無視しています(この記事に出典なしで追記する勇気はありません…)。出典がありましたら、追記お願いします。--かんぴ 2011年9月5日 (月) 14:34 (UTC)[返信]
(1)コメントありがとうございます。既にご確認していただいているかどうかわかりませんが、完璧な記事は絶対にありえません。いかなる秀逸な記事もその後の加筆修正のメンテナンスを要する不完全なものに過ぎません。まして、この記事のような、百人が百人異なる理解と体系を持つであろう分野においては、読み手と書き手の全員が不満を覚えることでしょう。しかし、それは人間の書いた百科事典の限界です。既述のとおり、「テーマの性質上、ありとあらゆる観点から、未来永劫無限の酷評・罵倒・冷笑を浴びせることが可能である」のです。このような包括的なテーマにおいては、現状で有効な先例がキリスト教位しかない以上、何をどうすれば秀逸な記事の基準を満たすというのでしょうか。賛成票も反対票も一票たりとも入ることのないまま議論だけが膨れ上がり、秀逸な記事の選考期間が過ぎてしまうのではないかと危惧しています。かんぴさんの書かれたようなことは、長文ですし上記査読ページの方が適していたような気もします。
(2)ご提案に関して。まず第一に、「「法解釈の対象」節を丸ごと法源へ転記」、については賛成しません。成文法のみが法解釈の対象ではない事を指摘したのがサヴィニー最大の功績であり(金山(2003)174頁)、慣習法や判例法をいかに認識するか、成文法といかに調和させ、法的安定性と具体的妥当性を調和させるかが、近代法解釈における自然法論と歴史法学の対立を背景にした一大問題であるからです(石坂(1919)109頁)。このために、「法解釈の対象」節においては「解釈」という文言や、法的安定性具体的妥当性という「概要」節で登場した統一的キーワード、成文法解釈内の節への内部リンクが多数出てくるのです。もしご提案に従えば、成文法解釈、特に「概念法学と自由法論」節や我妻博士の中盤と最後の纏め文2つはごっそり無内容になってしまうでしょう。法源の話であって法解釈の話ではないとするご指摘は、無意識的にか、成文法のみを法解釈の対象とする理解を前提にしておられるように思えます。なお、ゴーヤーズさんによれば、「私がコメントした時点よりもずいぶん改善されているように思いました」とのことです。もっとも、「法解釈(ほうかいしゃく)とは、各種の法源について、その内容を確定することをいう」のですから(冒頭定義文)、「慣習法とは」「判例法とは」という議論自体、法解釈にほかならないのですが。
第二に、「各分野における法解釈」節でも作り、とのことですが、賛成しません。これをすれば、労働法解釈の問題点とか保険法解釈とか、いくらでも肥大化してしまいます。それこそ個別の記事に委ねるべきものです。法解釈は総論的なテーマですから、法的安定性と具体的妥当性をどこで調和させるか、各分野によって調和のレベルが異なる事を示唆するのみで足りると考えます(例えば同じ民法でも統一的扱いが要求される物権法・相続法と、流動的な債権法とでまた違います。我妻(2005)156頁)。刑法解釈・民法解釈・憲法解釈~と全然分けてしまうのではなく、不文法解釈~成文法解釈の区分けの方がテーマに即していると考えます。
また、「「行政法における判例法」とか「刑法における成文法」とかも必要になってきて、なぜそういう節がないのか、という疑問」についてですが、「行政法における判例法」は「刑法における判例法」及び「行政法における慣習法」に準じて考えられます。したがって特筆性を欠きます。「成文法」は法律ごとの区分けをしていませんし、「刑法における成文法」は「刑法における慣習法」に準じて考えられます。したがって特筆性を欠きます。勿論、特筆性を立証して書き足すことは幾らでも可能でしょうが、だからといって「完成度」が低いとは言えないと考えます。
なお、手続法に関して言うと、例えば民事訴訟法、民事執行法・民事保全法や破産法などにおける裁判所書記官や執行官の慣習は実務上相当重要ですが、規則で明文化されていない不文の慣習は、国民の間に法的確信を生じない裁判所内部での単なる慣習(事実たる慣習)にすぎないので法的性質は否定されるでしょう(団藤(2007)27頁参照)。書記官相手に訴状さえ通ってしまえば訴訟外の和解に持ち込み易くなるとか何とか、ウィキペディアはマニュアルではありませんから、手続法における慣習法(?)、はやはり特筆性を欠いています。
なお、手続法における慣習については、裁判所総合研修所『民事訴訟法講義案(再訂版)』(司法協会、2009年)10頁に言及があります。裁判所内での慣習が明文化されることもある、というわけですが、明文化されない限り、「法解釈の対象」に加えるのは無理でしょう。手続法における慣習法なるものを論じた文献も見当たりません(新堂幸司『新民事訴訟法 第4版』507頁参照)。--Phenomenology 2011年9月6日 (火) 15:24 (UTC)[返信]
(3)「学理的解釈」の混乱、とのご指摘について。本文中にあるように法解釈手法の分類・ネーミング自体は色々なバリエーションがあっても、「学理的解釈」自体に混乱はありません。例えば、富井博士も「学理的解釈とは裁判官又は学者その他の一個人が任意の攻究に依りて為す所の解釈を謂う」というように(富井(1922)91頁)、立法的解釈(有権的解釈)の反対概念が学理的解釈です。学理的解釈という語を、学者による解釈に限定した文献を私は知りません。富井原論に限らず、リンクを貼ってネット上ですぐに読めるようにしてある文献くらいは参照していただきたかったです。手間も省けますから。なお富井原論に関してはリンク先から「学理的解釈」でキーワード検索(Ctrl+F)をすればすぐ出ます。
「私解釈」の語についても、同様に富井(1922)92頁に出てきます。しかも、一部の学者による区分けに過ぎず、法解釈の方法とは関係ないのであまり一般的な分け方ではない旨の指摘があります。したがって、私解釈というものも「法解釈の手法」節ではなく、せいぜい「法解釈の主体」節において論ずべきもので、学理的解釈=無権的解釈≒私解釈ですから(富井(1922)91-92頁、松波(1896)47頁)、一般的でない私解釈なるマイナー用語を独立の項目名に立てて「法解釈の手法」節で説明することは、かえって概念の混乱を招くものとして賛成できません(富井(1922)92頁)。もっとも、既述のとおり、ご提案のとおり「法解釈の主体」節を立てるなど、問題意識そのものはいずれも本文に逐一反映させていただいていますから、よりわかりやすく誤解のないようになったのではないでしょうか。ウィキペディアは論争をするところではありませんから、記事の健全な発展の観点から、賛成しがたい提案や編集に対してはその意思と論拠を示すと共に、採るべきは採るようにしているのであって、単なる「反論」のための反論に終始しているつもりは毛頭ないのです(Wikipedia:議論が白熱しても冷静に穂積陳重『法窓夜話』96話参照)。--Phenomenology 2011年9月11日 (日) 10:36 (UTC)[返信]
そこで本文ですが、「学理的解釈とは、学者をはじめとする学問上の努力によって、個々の解釈者が法令の意味を判断し、明らかにすることをいい、普通に法令の解釈といえば成文法規の学理的解釈を意味する」という文をどう読めば「学者(のみ)による法解釈」になるのでしょうか。確かに、この一文は記事中盤における我妻博士の纏め文の伏線になっているため、本文では「学者」が太字になっていますが、裁判官や弁護士等が「個々の解釈者」に含まれることは当然です。「学者をはじめとする」という、長谷川(2008)404頁にない表現をわざわざ入れて、「学問」といっても学者のするものだけに限られるわけではないという注意を喚起しているのに、そのように誤解されたのは残念です。
なお、「有権解釈が多義的であること」を述べるのではなく、原典の表記に従い、「有権解釈」(デルンブルヒ・鳩山)と「有権解釈」(長谷川・竹内ほか)とで表記を区別するという方法を採用していますから、読み手が混乱するおそれは低いと考えます。概念の多義性を述べて混同しやすいから注意が必要である、なんて記述をよく見ますが、異なる概念を与えて区別すればよいだけだろう、という場合が少なくないように思えます。もっとも、上記査読ページにもありますように、「解釈者は誰か」の問題を「解釈の主体」節を設けて統一的に把握するという構想はあったのですが、一般市民がする法解釈についての文献情報が紛失してしまったこともあって、断念しています。ただし、「学理的解釈の問題点」節で主要な問題は説明していますから、完成度が低いとは言えないと考えます。
「法解釈の主体」節を追加しておきました。--Phenomenology 2011年9月6日 (火) 14:17 (UTC)[返信]
(4)かんぴさんのされた加筆修正について。第一に、新たに立稿された「有権解釈・私解釈」の節に問題のある記述が目立ちます。例えば、「ただし、罪刑法定主義の下においては、遡及処罰禁止の原則が妥当する」という記述は、「有権解釈・私解釈」ではなく「立法的解釈」の節に入れるべきものです。現状では意味が通りません。また、「正しい学理解釈」という表現は、そういうものがあるのかどうかがそもそも大問題なわけですから(「立法者意思説と法律意思説」の節)、これを当然の前提とする記述はWikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成に抵触し、内容的にも「学理的解釈の問題点」節と重複します(「陳腐化を防ぐ」云々)。「これに対し、今日では」という表現も、ガイドラインWikipedia:すぐに古くなる表現は使わないに抵触します。
第二に、「概要」節画像註釈部分での馬と牛を使った説明的な定義は蛇足です。無くても理解に問題があるとは思えませんし、そこでの主題は解釈一般の必然性であって、法解釈における「類推解釈」とは何かではありませんから、文の挿入によって論理の流れがかえって悪くなってしまっています。類推解釈についても、「類推解釈・反対解釈」節への内部リンクが貼ってあるうえ、その実例は既に示されているわけですから、無駄な繰り返しというべきでしょう。そもそも、「Wikipediaは教科書ではありません」から、教科書的な説明は極力省かなければなりません。
以上を反映した加筆修正を行っておきましたのでよろしくご検討ください。--Phenomenology 2011年9月5日 (月) 18:15 (UTC)加筆修正--Phenomenology 2011年9月6日 (火) 11:45 (UTC)[返信]
(インデント戻す)根本的な考え方の違いなのかもしれませんが、やはり問題は解決していないと思います。結局「読み手への配慮」という点(これが「わかりやすい」というところにつながるのだと思いますが)ができていないのだと思います。例えば、私が「学理的解釈」の用法に混乱があると述べたのは、「本文の記述」に混乱があると述べたのです。「法学者が混乱している」わけではありません。「そもそも、…(中略)…という文をどう読めば『学者による法解釈』になるのでしょうか。」と反論なさっていますが、私のコメントをきちんとお読みください。「冒頭の定義(『個々の解釈者が法令の意味を判断し、明らかにすること』)、…(中略)…については、『立法的解釈に対する概念としての学理的解釈』の意味で使われている」と述べているでしょう。私が指摘したのは「学理的解釈の問題点」節とその他の部分の違いです。「学理的解釈の問題点」節では、「判例・実務の立場とかけ離れた学理的解釈は机上の空論となりがちである」「学問は必ずしも現実の紛争を解決することを主たる目的とするわけではないので、実務と一致するとは限らない」「現実の法令・実務に拘束されない」のように、学理的解釈の主体として、明らかに裁判官や弁護士等(実務家)の存在を想定しておらず(裁判所の解釈が「実務の立場とかけ離れ」るのは意味不明だし、裁判所の仕事は「学問」でもなければ、ましてや「法令・実務に拘束されない」こともない)、専ら「学問」ないし「学説」の話をしています。この文は、明らかに「学者による解釈」の問題点への言及です(内容的には、いろんな文献でよく見かける、「判例と学説を対比した場合の、学説に対する批判・戒め」みたいなことです)。ですから、この部分だけ、何の断りもなく急に学理的解釈を「学者による解釈」の意味で使っているから、「混乱している」と述べたのです。それは「誤読だ」と、また反論が来るかもしれませんが、少なくとも、私には、そうとしか読めません(なので、わざわざ「私解釈」という概念を持ち出してまで分離しようとしたのですが、また元に戻されたみたいですね)。
また、「馬」と「牛」についても、「無くても理解に問題があるとは思えません」というのは、読者(特に、初学者)のことを考えていません。「牛はつないでも良いのであろうか?」と問題提起をしておきながら、そのリンク先には「馬」も「牛」も出てきません。「実例は既に示されている」とのことですが、リンク先を見ても、類推解釈・反対解釈に関しては、「馬」や「牛」どころか、何の実例も出ていないのです。これでは「結局どっちが正解?」という読み手の疑問に答えがでません(「答えのない問いかけ」など、それこそ、教科書の隅っこに載っている「みんなで考えてみよう」的な問題でしょう)。もちろん、ここでの「答え」は、「解釈は多様である」ということなのでしょうが、それならそれで問いと関連付けた形で(要するに、馬とか牛とかに関連付けて)本文に書くべきです。ましてや、「主題は解釈の多様性」といいながら、「一般的には、馬に限定する理由はないであろうから、牛はつないではいけないことになるが」という註釈を付け、「一般的には類推解釈になる」ということを述べるのは、「この事例では、『つないではいけない』というのが『答え』で、その答えの解説が『類推解釈・反対解釈』節に書いてあるのだな」という誤解を生みかねません。この画像で「解釈の多様性」をいいたいなら、「一般的には類推解釈」なんていう註釈はそれこそ蛇足です。確かに、最初に註釈で「これが類推解釈で…」という説明をするのは流れが悪いかもしれません。それなら、「いい流れ」で「類推解釈・反対解釈」節において「馬」と「牛」を使った「実例」を書いておくべきでしょう。「流れ」でいうなら、「一般的には類推解釈」というのも、この後に書くべきでしょう。
Phenomenologyさんがこの記事の中で記述したことは、出典もありますし、ざっと見た限りでは間違ったことは書かれていませんし、非常に広範囲の専門的な知識が凝縮されている。その意味で非常に充実した記事であることは間違いありませんが、上で述べたような、読み手の誤解を生みかねない表現(構成)を「専門的なものだから」「完璧な記事などないのだから」「教科書ではないのだから」といった理由で軽視している(少なくとも私にはそう見えます)のは、「何か違うな」と感じます。
今回は、Phenomenologyさんのお誘いを受けてコメントをしましたが、上記のような理由で、今の状態(というか、Phenomenologyさんの編集方針)では、「秀逸な記事」とするのを躊躇します。私の基準は既に示しましたが、異論もあるでしょうし、それが不適切だと考えるなら、それはそれで構いません。このままでも十分「秀逸な記事」の基準をクリアしていると考える方は他にたくさんいらっしゃるでしょう。私は、賛成票を入れませんが、ここで反対票を入れるようなことはしません(私の中の選考基準が、秀逸な記事の選考基準と合致するのか分かりませんので)。保留票は特に選考に影響を与えないみたいなので、あと3票、他の方の賛成票が集まるのをお待ちください。なお、選考期間内に記事が改善されたと感じた場合、その際はもちろん賛成票を投じさせていただきます。--かんぴ 2011年9月7日 (水) 16:12 (UTC)[返信]
まず、議論に参加していただいたことに御礼申し上げます。「私解釈」の用語や、「法解釈の対象」と対になる形で、「法解釈の主体」節でも作って」というご提案についても、本文中に採用させていただいています。申し訳ないながら削らせていただいた部分についても、具体的な問題点は既に述べたとおりです。
その上で、申し上げますと、かんぴさんの感じる違和感は、法解釈における「正解」の有無や不文法・成文法解釈の重点など、法解釈の理解・体系、及び何をもって「わかりやすい」というのか(#論理解釈の問題点の節)、というもっぱら依って立つ「根本的な考え方の違い」によるものであろうと考えます。たとえかんぴさんが完璧に満足する構成・内容になったとしても――誰が書いたとしても未来永劫ありえませんが――何らかの不満や違和感を抱く読み手は必ずいることでしょう。ドイツの法曹界が総力を結集して創り上げたドイツ民法典においてさえ、何の違和感や不満を抱かなかった学者や実務家が一人でもいるでしょうか。かんぴさんの示された基準は、百科事典の記事に対するものとしては些か過大要求ではないかと思えます。
こういった、無難な事実の羅列やネタ本の引き写しではないそれなりに突っ込んだ文章は、ツッコミどころがある分だけ、百科事典の読み手として一般的に想定されている「初学者」や門外漢自身ではなく、一家言ある専門家や上級者ほど、自分の理解と違うぞ、「初学者」への配慮が足らないぞ、という批判的な目で見がちです。それでは、秀逸な記事になるためには、ツッコミどころをなくすために、ただひたすら無難な事実の羅列に出典をびっしり付けるだけにすべきなのか、それを「卑い註釈」(杉山(1936)162頁(富井))であるとして退けるべきのか、Wikipediaにその解答はかならずしも明確ではありません。
「テーマの性質上、ありとあらゆる観点から、未来永劫無限の酷評・罵倒・冷笑を浴びせることが可能であるとは思いますが、キリスト教のように抽象的・包括的な大きなテーマや、法律系の記事に秀逸な記事・良質な記事が極端に少ない現状において、一つのモデル・ケースを提供することができると考え」る、のはそのためなのです。
次に、これも考え方の差異でしょうが、「学問」の担い手は「学者」のみではありません。学者と裁判所だけが解釈者ではないことも言及済みです。「裁判官」も「弁護士」も、職務上又は個人的見解として、しばしば私見や異説を述べ、時折学者の学説にも影響を与えます(伊藤眞・加藤新太郎・山本和彦『民事訴訟法の論争』(有斐閣、2007年)108、237頁)。場合によっては最高裁の判例を無視して自説に固執した運用をする裁判官さえいますし、とりわけ調査官の斬新な学理的解釈は従来の判例実務をも覆すことがあります(奥田・紛争解決と規範創造174頁)。「裁判所」ですら、制度的に学問的研究をやることもあります(『司法研究報告書』など。ほとんど裁判所の資料課に埋もれていますが)。したがって学問とあるから「明らかに「学者による解釈」の問題点への言及」である、とはいえません。
学問の担い手は学者に限られるものではないから、裁判官をはじめとする実務家による学理的解釈がしばしば判例・学説を動かすことがあるのは勿論である」との注意書きを入れました。この方が簡明かつ誤解がないと思います。倉田卓次伊藤正己元判事の文献も追加。私としては、大学に所属していない者であってもノーベル賞や博士号は取れるわけですから(→田中耕一倉田卓次)、学問の担い手が学者のみに限られず、実務と学問が不可分一体であるということは自明の理であると思っていたのですが、改めて物事には色々な見方があるのだなと思い知らされた感じです。
いずれにせよ、検証に必要な文献情報は十分明示していますし、下でぱたごんさんが実行されたように、「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」は、完璧ではないにしても他のどの記事よりもできていると思います。読んで疑問をもつことは、発展性を意味するものではあっても、欠陥があるせいとは必ずしも言えないのでしょうか。ウィキペディアも「人を惹き付けるような書かれ方」を推奨しており、我田引水かもしれませんが、法律の「素人」であるぱたごんさんをして民法案内を読んでみようという気にさせたということは積極的に考えたいと思います。もっとも、某博士いわく、一度もつっかえること無く最初から最後まで読み手を引き込ませ、しかも頭に残る文章が最高の文章であり、司法試験の答案でも年に一通あるかないかだということでした。本稿がそこまでの域に未だ達していないことは認めなければならないでしょう。--Phenomenology 2011年9月10日 (土) 08:58 (UTC)加筆修正--Phenomenology 2011年9月12日 (月) 13:26 (UTC)[返信]
それから、馬と牛について。牛はつないで良いのか?が「問い」ではありません。解釈問題はどうしておきるのか?が概要本文における問題設定です。例えば、馬つなぐべからず、はそれ自体は一見明瞭である、だが牛ならどうなのか、という疑問を生じるじゃないか、このように、ありとあらゆるルールや法則には解釈問題が発生しうるのだ、というのがここでの主題です。したがって、じゃあ牛はつないで良いのかという法解釈そのものではない議論についての結論は註釈に落としているわけです。そして、牛はつないではいけないという場合が多いだろう、ちなみにこの「例」のような解釈を、法律家は「類推解釈」と呼ぶのだが、それはまたあとで話すことにしよう(→#反対解釈・類推解釈)。という話の流れになっているのです。したがって、「反対解釈・類推解釈」節において、「「馬」と「牛」を使った「実例」」は、既に「#概要」部分で出てきているわけですから(「既に示された例示」)、繰り返しは蛇足です。これに対し、改稿前の記事では、ほぼ全面的に馬と牛レベルの通俗的説明をしていますが、ウィキペディアは教科書ではありませんので、「初学者」に何となくわかったような気にさせることはその任務ではありません(Wikipediaは何でないか)。これでもまだ、説明的な記述が多すぎる、もっと簡明にせよという批判があるのです。
ところで、Wikipediaにおいて必要とされるわかりやすさとは、「教科書」的・説明的なわかりやすさではなく(Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか)、「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」であることでしょう(Wikipedia:独自研究は載せないより引用)。
この観点からすると、かんぴさんが想定されている「初学者」像はあまり自然ではありません。牛はつないで良いのか?と聞かれたとき、どちらが「正解」なのだろう、法律家にきいてみよう、などと考える人はあまりいないでしょう。そして、まずどういう状況なのだろう、と考えるのが通常人の思考でしょう。確かに、「このはしわたるべからず」が「分別のある大人であれば誰でも」当然に「この橋渡るべからず」に解釈されるのと同様(一休咄)、ほとんどの場合牛も繋いではならない、ということになるだろうけれども、その具体的状況による馬つなぐべからずの「趣旨」によっていくらでも左右されるはずだ、あらゆる状況において具体的に通用する唯一絶対の「正解」など無いだろう、特に法律の場合違反すると不利益が大きいから、より「慎重」な判断が必要だ、というのが註釈で書かれていることです。これは後の記述の伏線であると共に、専門知識を有しない初学者かどうかを問わない、法解釈以前の問題です。一方で、教科書説明をあまり書くべきでない(Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか)、冗長な説明はかえって一言一句に疑問を生じさせるから必ずしもわかりやすくはない(杉山(1936)166頁、富井(1922)69頁)、との要請・指摘がありますから、ギリギリの妥協で画像や註釈に落としてあるのです。元々反対解釈・類推解釈の節にあったものを、良質な記事の選考で頂いたご意見を反映させて概要部分に移動したものでもあります。このために、「「類推解釈・反対解釈」節において「馬」と「牛」を使った「実例」を書いておくべき」、とありますが、その節では「概要」への内部リンクを貼るという形での「「馬」と「牛」を使った実例」の提示がなされているわけです。
正直なところ、かんぴさんの本稿へのご批判は、意義のあるものも勿論多いのですが、ウィキペディアのルールや「学問」に対する考え方の微妙な違いに基づくものが少なくないように思えます。テーマの性質上やむをえないことではありますが、そういったものも含めて、出来る限り様々な立場の読み手を意識した記述を心がけ、Wikipedia内外からの批判やご意見も極力反映するように努めてきたのです(本稿履歴、査読ページや上記yuh-jaさんとの議論等参照)。それができていないといえば永遠にできていないものなんでしょう。
上でyuh-jaさんも指摘されるとおり、こういった類の記事は殆ど無いためにウィキペディアに貴重な存在たりえるものだとは思うのですが、既に書いたとおり、法解釈には様々な立場があり、一家言ある人も少なくないだけに、「賛成票も反対票も一票たりとも入ることのないまま議論だけが膨れ上がり、秀逸な記事の選考期間が過ぎてしまうのではないかと危惧」していたわけですけれども、どうやら現実になりつつあるように思え、非常に残念です。--Phenomenology 2011年9月9日 (金) 13:24 (UTC)[返信]
そうはいっても、各種議論のページや本稿編集履歴をご覧いただければお分かりのとおり、「読み手への配慮」から、幾度と無く表現の修正や構成の見直しを行っているのであって、「読み手の誤解を生みかねない表現(構成)を「専門的なものだから」「完璧な記事などないのだから」「教科書ではないのだから」といった理由で軽視している」ということはありません。しかし、初学者にわかりやすくあれ、という要請と、共に、教科書的になるな、という要請もあることを忘れてはいけません。ところで、そもそも「読み手の誤解を生みかねない表現(構成)」の無い文章はありえるのでしょうか。それが無いことを証明せよというのは悪魔の証明です。だからこそ、全ての文や文章――聖書やコーランですら――には解釈が必要になるのではないでしょうか。--Phenomenology 2011年9月8日 (木) 09:01 (UTC)[返信]
吾妻『民法案内』では『馬つなぐべからず』の例題に関して文字だけ追いかけても水掛け論になる。どうしても規定の立法の理由を検討しなければならない。馬がいななくのが困るのならば牛はいななかないので繋いでよい(反対解釈)。糞が困るというなら牛もいけない(類推解釈)とされています。これならば素人でも分かりやすい。しかし、今の記事では『馬つなぐべからず』の例えが理解を助ける例えになっているのかな?とおもいます。私は吾妻を読んで初めてPhenomenologyさんが法解釈に馬を持ち出した理由がわかりました、しかし、吾妻を読まなければ未だに何で馬を持ち出してきたのか分からなかったことでしょう。--ぱたごん 2011年9月9日 (金) 13:46 (UTC)[返信]
ご意見ありがとうございます。民法案内まで読んで検討して頂いて恐縮です。極力簡潔にではありますが、ご意見を反映した加筆修正を行っておきました(案内150頁)。なお、多少強引ながらも、懸案だった立証責任の問題へのリンクを作ったことで、単なる教科書的記述とは言えないと考えます。事実の認定においてどちらが原則になるか?という問題は立証責任の問題と考えられるからです。--Phenomenology 2011年9月9日 (金) 14:52 (UTC)微修正--Phenomenology 2011年9月10日 (土) 04:26 (UTC)[返信]
  • 反対 感情的には抵抗もありますが、明確に反対します。すでに指摘されている通り、「詳しくない読者にもその主題について理解できるように、わかりやすく書かれている」という点について見ると、残念ながらとても厳しい点数を付けざるを得ません。これを理解できる読者が――法学部とかと無関係なひとで――どれだけいるのか疑問です。正確かつ簡潔に書くと、多分こうなるのでしょう。しかし、普通の読者から見ればもう十分すぎるほど「難しく、長い」でしょうから、もはや簡潔にすることを無視して……もっと長くなっても良いから平易な語句・文章で、要するにもっと「教科書的」な方向で説明を試みるべきだと思います。これだけのものが書けるのにこういう状態では勿体ないです。あと、他の節を参照するようリンクが随所に置かれていますが、理解できる読者にはもちろん、理解できない読者に、はたしてそれが意味をなすのかどうか疑問です。少なくともすぐ近くの節をいちいちリンク張るのは邪魔でしかありませんし、リンク先を参照してもやはり難しいですし、要するに、これはただでさえ難解な文章を読みづらくするだけのように思います。3言語や4言語で語句が併記されているのも意味があるとは思えません。--氷鷺 2011年9月18日 (日) 13:32 (UTC)[返信]
コメント結論的に反対される分には構いませんが、前の方々のご意見に対しては逐一対応し本文にも反映しているのですから、具体的な問題点の指摘の無いまま批判だけされても対応のしようがありません。こういう状況になってしまうと、選考の是非の観点からはもはや意味が無いのかもしれませんが、今後の記事の健全な発展の為にもコメントさせていただきます。
第一に、「これを理解できる読者が――法学部とかと無関係なひとで――どれだけいるのか疑問」とのご指摘について。
法律には詳しくないものの、法律を解釈するということにこれだけの考え方があるということをうまく説明できている記事だと思います。推薦者のおっしゃるとおり、出典のつけ方も大変丁寧で、広範に文献を渉猟しており、また日本の事情に留まらず英米法・大陸法の事情をきちんと説明できている点もよいと考えます。やや硬めの文章ですが、法律論というものはこういうものでしょうし、普通の日本語話者が理解するのにそこまで困難ではないと考え、賛成票とします。

Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/法解釈 20110803

このコメントの後も幾度も改善を試みていることは既述のとおりです。同じく法学分野に属し、既に秀逸な記事に選出されている少年保護手続陪審制と比較しても、普通の読者にわかりにくいとはあまり言えないと思います。特に前者については、なぜ本稿とでそこまで大きな評価の差が付くのか極めて疑問であり、大きな不満を覚えるところです。
そもそも、ここに書かれている内容は、Wikipedia:査読依頼/法解釈 20110710で指摘をいただいていますように、大学1年生向けの「法学入門や教科書レベルの記載は優に超えた」ものとなっており(いわゆる法学出門)、哲学宗教等と同じく、永遠に分かり難いものです。自然科学系の記事においては文系の読者に対する「わかりやすさ」は相当軽視又は無視されているのに、なぜ法解釈分野にはそういうものが要求されるのでしょうか。ウィキペディアにおいて要求されているわかりやすさについての検討は既述のとおりです(「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」)。
第二に、内部リンクですが、内部リンクを置いて各項目が不可分一体の体系的記述になっていることを客観的・明示的に示さなければ、すぐ各項目を「分割」して別記事にせよとの意見が出てしまいます。
また、「すぐ近くの節」が未来においてもすぐ近くにあるという保証は何処にもありません。
何よりも、一見すると何となくわかりやすいようでも、情報が右から左へ抜けて行って、最初の方に何が書いてあったかを忘れてしまうようではあまりよくない文章でしょうから、いちいち記憶を喚起しながら進むということ、どこから読み始めても全体を理解することに繋がるということからすると、多少うるさいようでも内部リファーを徹底する意味があると考えます。本稿の真ん中と最後に我妻博士の纏めが入っているのも同じ趣旨です。
第三に、他言語併記については、Wikipedia:素晴らしい記事を書くにはにおいても、「付加的な情報として他言語を利用することは良い方法」とされ、ただ「他言語に依存するような文章は避けてください」とされています。「他言語表記は控えめに」の意味をどう理解するかは難しい問題ですが、重要概念における他言語の併記は、法律分野の百科事典である竹内ほか(1989)などにおいてなされていることで、どの語を併記するかについても出典の裏付けがあります。世界的観点や歴史性を示す積極的意義もあるでしょうし(Wikipedia:日本中心にならないように)、調べ物の観点からも、他言語文献を読まなければならない人にとってこの手の言語併記は結構ありがたかったりするものです。少なくとも、ゲマイネスレヒト(gemeines Recht)やパンデクテン(Pandekten)は日本語の文脈でもしばしばテクニカルタームになるため、削ってしまうべきではないでしょう。
第四に、「もっと長くなっても良いから平易な語句・文章で、要するにもっと「教科書的」な方向で説明を試みるべき」とのご提案についてですが、現状ただでさえ長い以上、情報量を増やすことなく更に長くすべきではないでしょう。先例もないように見受けられます。ウィキペディアの外からの批判ではありますが、「これでもまだ、説明的な記述が多すぎる、もっと簡明にせよという批判がある」のはもっともだと思います。
それでもなお教科書的記述にせよというのであればいくらでも可能でしょうが、その結果アンバランスで不正確な独自研究的記述のオンパレードになっていくのを抑止できるか疑問です。「わかりやすい」と称する法学入門の書は星の数ほどありますが、そういうものに依拠してさえいれば良いとは思えません(Wikipedia:信頼できる情報源)。百科事典である以上、安易な教科書的記述に流れず、「正確かつ簡潔に書く」ことが本義と考えます(全面改稿前の記事参照)。
結局、これはウィキペディアの記事はどうあるべきかの問題であろうと思います。確かに、簡潔・正確な文章は一見するととっつきにくい(≠わかりにくい)印象を与えるかもしれない、しかしそれを捨て長く説明的にしたところで、かえって一字一句に疑問を生じ(杉山(1936)162頁)、それでは結局本一冊書かなければならないか、少なくともウィキペディアの基本的ルールに合わないとの批判を免れないでしょう。勿論、バランスを保ったままでというのが理想ではありますが、何をもってわかりやすいかについて根本的な大きな対立があるのに、万人がそのように評価するものを書けというのは無理難題です。もっとも、とっつきやすさに関しても、画像や有名な文の引用を次々と入れて本文とリンクさせ、その要約にするなどの工夫を凝らし、飽きがこないように、理解しやすいようにしているのであって、読み手への配慮がなっていないといわれるのは心外なのです。
何度も申し上げますが、「テーマがテーマだけに、読み手の百人が百人何らかの不満を感じることと思いますが、初心者にも易しく、わかりやすく書いて欲しいという要請と、百科事典としての性質を守りつつ、教科書的・説明的にならずに簡潔に記述せよという要請の2つを完璧に満たすことは不可能です。自分の理解と違うことが書いてあるからけしからんという批判もあるでしょう」が、それでは――一番上でyuh-ja さんの指摘されるとおり――「様々な立場」、多様な考え方があり、入り口が広くて出口がない法解釈分野において、秀逸な記事はありえなくなってしまいます。なるほど、個々の投票者の好みに合うものを書けば一時的には選考には通るかもしれません。しかし、「テーマの性質上、ありとあらゆる観点から、未来永劫無限の酷評・罵倒・冷笑を浴びせることが可能」であり続けることに変わりはないのです。だとすれば、法解釈分野における真に秀逸な記事としてどういうものを創り上げていくべきなのか、建設的・現実的な考察がなされるべきで、選考の結果はともかく、本稿はその格好の材料になりうるものと考えるのです。
ウィキペディアは百科事典的な参照資料であって、教科書ではありません。ウィキペディアの目的は事実の提示であって、主題について教えることではありません。例えば質疑応答や系統的な問題の解法など、教科書のように書かれた記事を作ったり編集したりするのは適切ではありません。そのような内容は姉妹プロジェクトのウィキブックスウィキソースに属します。これ以外のもの、特に教育よりも情報提供を意図するものについては、ウィキペディアの記事として適している場合もあるかもしれません。 — Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか

--Phenomenology 2011年9月18日 (日) 19:32 (UTC)--脱文補充--Phenomenology 2011年9月19日 (月) 13:55 (UTC)[返信]

コメントこういった類の大きなテーマは、無限の批判をなしうるものです。特に、法解釈分野においては様々な立場の差がありますから、記事中何度も指摘しましたように、団藤・星野・内田・長谷川等々、高度な専門書にすら内容の正確性と中立性に疑問符の付くものが散見されるほどです。したがって、ある学者の本に断定的に書かれているからといって、それを丸写しすれば良いというものではありません。一つの記述に対して極力複数の文献で慎重に裏付けをしているのはそのためです。もっとも、それでもまだ文献が全然足りないという批判は可能でしょう。記事中参照したものの中には従前の学者が見落としていた一次資料も含まれている程、文献は広く漁っているのですけれども。
また、何をもって「わかりやすい」というかは人によって異なり(高橋宏志『法学教室』269号巻頭言、同旨、藤田(2002)巻末座談会参照)、初学者への説明的(教科書的)なわかりやすさは、内容の正確を犠牲にせざるを得ない面があると指摘されています(穂積重遠『民法読本』序文)。
そういうものがウィキペディアの求めるわかりやすさであるとするのはルール違反だと思います。ウィキペディアの内外から受けている本記事への批判を全部ひっくるめると、「全世界の文献を広く狩猟した上で、高名な裁判官や学者が読んで感動する程の内容を五歳児にも分かるように簡明かつ端的に叙述せよ」ということになるようですが、そんな文章は人間に書けるものではありません。
いずれにせよ、どの程度まで書ければ百科事典の記事として一応十分であるといえるについて建設的な議論がなされなくてはなりません。その意味でも、ほとんど反対のための反対に等しい反対意見が付いたことは全くもって残念なことです。--Phenomenology 2011年11月5日 (土) 22:12 (UTC)[返信]

選考終了)選考期間満了のため、今回は見送りとなりました。--totti 2011年11月30日 (水) 17:33 (UTC)[返信]