Wikipedia:井戸端/subj/芸能人、アナウンサー、声優の記事

芸能人やアナウンサー、声優の記事について[編集]

最近、井戸端でもアナウンサー記事の粗製濫造について議論が行われていますが、僕もアナウンサー記事は不要と感じます。それ以外にも芸能人(特にお笑い芸人など)や声優の記事は不要と感じます。理由はただの人物録になってしまうことや、憶測(~らしい)といった文章が書かれてリバートされたり、それを消してしまうと何にも書かれていない恰も存在がないかのような記事になってしまったり、非公開の本名が書かれてしまったり(削除したとしてもするまでの間に色々な人に閲覧されて巷へ情報が流出したりしてしまう)、プライバシーが侵害されたりなど、メリットがありません。調べ物としても全く役に立ちません。というよりその記事を調べる人などいないはずです。つまり意味のない記事ということになってしまいます。多大な業績を残した芸能人(石原裕次郎など)はまだ載せることはできますが、それ以外はいっそのこと突飛ではありますが全て削除したほうがいいと思います。ウィキペディア内でのこの現状と芸能人、アナウンサー、声優の記事の必要性を皆さんにどう思うかお聞きしたいと思います。--Kuty 2007年6月27日 (水) 08:24 (UTC)[返信]

非常に極論であることを理解されていておっしゃっていると思いますが、しかしながら、やはりそこまでの徹底は不可能でしょう。なぜなら、「記事を調べる人などいないはず」というのは悪魔の証明というやつですし、そういう断定が何らかの形で出てこないならば、結局誰かの主観になってしまう(=主観を元にする対立というものはたいていの場合解決を見ません)からです。仮に削除したとしても、誰かがまた作るでしょうし、それを否定することはWikipediaの目的から乖離したものです。
だとするならば、建設的なのは、削除依頼などによって、必要な記事とそうでない記事の篩い分けをする一方で、どうしたらWikipediaにふさわしい記事になるのかを話し合ったり、ガイドラインを整備したりすることではないでしょうか。ウィキプロジェクトなどが体現していることでしょう。確かに、おっしゃるとおり人的・物理的リソースを多く要求しているジャンルですが、消した後で改善するのかどうかが問題で、全削除では改善できないのではないでしょうか。
ちなみに、「芸能人、アナウンサー、声優の記事は必要かどうか」ということに対しては「必要です。しかし、全てが必要な項目ではないと思います」といったところになるでしょうか。--ish-ka -s.i.b!- 2007年6月27日 (水) 08:45 (UTC)[返信]
ish-ka -s.i.b!-さんとおおむね同じ意見ですが、入社数カ月のアナウンサーと徳光和夫を、あるいは全くテレビや舞台に出ていない若手芸人と西川きよしを、端役しか出演経験のない新人声優と野沢雅子を同じ次元で判断しようとする意見にはまったく同意できません。--DEN助 2007年6月27日 (水) 09:01 (UTC)[返信]
同じ次元で判断はしていません。上記で述べた、石原裕次郎のように多大なる業績を残した(箇条書きではなくちゃんとした文章で書くことが沢山ある)人のことを指しているので、西川きよしや徳光和夫、野沢雅子は、それなりに沢山書けるのであれば残しておくべきです。全部不要かと思いましたが、全部は不要ではないとish-kaさんの意見を聞いて思いました。--Kuty 2007年6月27日 (水) 09:16 (UTC)[返信]
意図的に各界の石原裕次郎クラスの名前を出してみましたが、この3人と石原裕次郎を同列に扱ったら烈火のごとく怒る方もいるのではないでしょうか? 徳光和夫はOKでも梅田淳ではどうですか? 西川きよしではなく辻本茂雄では、野沢雅子ではなく渡辺久美子ではどうですか? 石原裕次郎と比べたら到底及ばないでしょうが、Wikipediaではいらない項目とは決していえないでしょう。でも、後者に挙げた方はその方面に一定の知識がなければ恐らくは知らない方なのでは? とにかく、乱暴すぎる基準を持ち出すのは破壊行為と同義に思います。--DEN助 2007年6月27日 (水) 14:23 (UTC)[返信]
クロスオーバートークになっていますので、仕切り線を入れた上で、インデントを戻します。ご了解ください。
DEN助さんのおっしゃっていることは実に的を射ていると考えます。後者二人は俺もわかりますが、梅田淳は出てくるような人物ではありませんでした。オフィシャルサイトまで飛んで、ようやく誰だかわかりました(この段階でそれなりに著名性があることを理解した、と言ってもいいでしょう)。俺の知識が追いついていないばかりに、誰だかわからないということですね。言ってしまえば俺には関係のない記事です。必要でないと言っても過言ではないでしょう。が、それは削除してよいものか?答えは当然NOです。それは、きちんとした人が見たり、編集をすることで、一記事として成立する(している)からです。
というようなことが、レベルは違えどそこかしこで起こっているんではないかと捉えています。どのレベルまでその基準を下げるかが問題で、それは記事そのものもそうだし、記述内容だってそうです(「この記事・記述は不要!(と削除)」→「何で消すの!」以下略)。
だから、「不要じゃないの?」と投げかける側の人間は(むやみな衝突を避ける意味でも)「いる記事・記述」と「要らない記事・記述」間のボーダーラインを見極めること(削除依頼がその篩い分けの役目を果たしてくれるでしょう)や、少し迂回して、ノートでの議論をするなどのちょっとした手間をかけることを惜しむべきではないのではないでしょうか(ここまでやっている人を、賞賛の意味をこめて「削除主義者」と呼びたいし、そうしています。俺ルールですが)。その意味で、「井戸端というステップも踏み、コンセンサスを得ようとした上で、篩い分けする」という、(名指しで申し訳ないが)利用者:fromm氏のようなやり方には非常に共感していたりもします。--ish-ka -s.i.b!- 2007年6月28日 (木) 01:23 (UTC)[返信]

気になったのですが、ローカルタレント舞台俳優歌手でも業績を審判するのは不可能ですよね。ローカルタレントはばってん荒川大泉洋しか記事にかけないのでしょうか?大規模な活動をしていない歌手では夏川りみ笹川美和おおたか静流などはレベル的に劣っていることになってしまいます。ローカルタレントはラジオではリスナーの在住地によって知名度すら違います。むしろ関東ローカルなのにそれが全国放送されていて、本来低いはずの知名度がなぜか高すぎる例もあります。食品にしても、販売していない地域の物の記事は不要ですか?コンビニでも、ローソンファミリーマート以外は特定の地域しかないのですから、そこにウィキペディアンが住んでいなければ不要な記事ですよね?--たぬき 2007年6月27日 (水) 12:59 (UTC)[返信]

いや、それは可能でしょう。例えばローカルタレントは各種ローカル紙/誌などに話題として取り上げられる場合があると思いますし、舞台であっても舞台を対象とした雑誌/本はあります。もちろん歌手であっても。むしろ活動規模でなく、「記述する元になる、さまざまな資料」があり、かつ記事に仕立て上げられるスキル・手間・協力を仰ぐことなどさえ惜しまなければ、Wikipediaに載せることは可能でしょう。そういう場合なら例え削除依頼に出されようと、その項目の必要性をしっかりとエクスキューズできるはずです。
つまり、「どこローカル」という考え方はWikipediaにはなくって、そこにはただ記述されるべき(とあなたが思う)対象と資料があればよいのです。誰もが記述できる百科事典とはそういうものだと理解していますが、どうでしょうか。余談ですけど、「Wikipedia日本版」じゃなくって、「Wikipedia日本版」なんですよ。よっぽど専門的な記事を除けば、大概の記事は「日本ローカル」ですよ。でも、Wikipediaはそんなみみっちいモンじゃないでしょう^^ --ish-ka -s.i.b!- 2007年6月27日 (水) 14:12 (UTC)[返信]