Wikipedia:コメント依頼/みしまるもも

利用者:みしまるもも会話 / 投稿記録 / 記録さんに対するコメントを依頼します。--頭痛会話2013年6月13日 (木) 18:10 (UTC)[返信]

依頼内容[編集]

論点1:引用の長さについて[編集]

みしまるももさんはこれまで三島由紀夫に関連する記事を中心に、日本の近現代文学の分野で活動されています。執筆では複数の情報源にあたって出典を明記されており、中立性や大言壮語などの観点からもおおむね問題のないものです。結果としてこれまであまり書き手のいなかった日本の近代文学作品の記事は大分充実したものになっていると思います。

一方で活動初期から気になっていたのですが、みしまるももさんは文学作品の記事を執筆する際、大抵の場合「作品評価・解説」という節を設け、この節の中で作者の自作解題や批評家の作品評などから何行にもわたる長文の引用を行う傾向があります。それも単に引用が長いというだけでなく、「A(評者)は○○について、・・・・(長文引用)と述べている。Bは××に関して・・・・(長文引用)と解説し、△△と結論づけている。Cは・・・・」という具合に、評者を一人一人上げて、引用を羅列するような形で書かれており、そのためにこの「評価・解説」の節は大半が長文の引用で占められるような形になってしまっています。

最近の執筆記事で例を挙げると、伊豆の踊子楢山節考東京のプリンスたちみづうみ、少し前のものでは太陽の季節の該当部分を見てください。リンクでは直接の引用部分を太字にしています。節の大部分が他者の文の引用になっており、地の文は引用の前置き、つなぎ、簡単な結論といった補助的な役割しか担っていないことが分かると思います(なお伊豆の踊子をはじめ上の版以降で加筆修正が行われているものがありますが、後述するように別の問題が生じているため少し前の版を示しています)。

Wikipedia:引用のガイドラインWikipedia:ガイドブック 著作権に注意では、引用を行う場合は必ず地の文が主、引用が従の関係になっていなければならず、また引用部分は「必要最低限」にしなければならないと明記されています。上で示したような例はこれらを満たしておらず、過剰な引用にあたるのではないか、というのが第一の論点およびコメントをいただきたい点です。--頭痛会話2013年6月13日 (木) 18:10 (UTC)[返信]

論点2:この問題に対する被依頼者の態度について[編集]

上記のような点について、昨年の11月頃に被依頼者の会話ページで一度(ただしそれ以前にも記事のノートで引用について簡単な指摘をおこなっています)指摘を行いました(利用者‐会話:みしまるもも#作品評価・解説の描き方について)。結果ある程度は地の文を入れるようにはなったようなのですが、上で見たように本質的な改善がされているようには見えず、今月に入ってから会話ページで再度指摘を行いました(利用者‐会話:みしまるもも#もうちょっとなんとかなりませんか)。しかし最近別の議論で被依頼者との間に意見の対立が続いているといったことがあり、そのためか今回は素直に問題点の指摘として受け取っていただけておりません。被依頼者自身の見解としては正当な引用の範囲であり、ただ依頼者がうるさく言うので仕方なく「譲歩」「妥協」し修正を試みる、といったことを表明されています。

それで伊豆の踊子に対して部分的な修正があったのですが、以下のようなものでした。

(修正前)「川端氏はこの『処女の主題』のおかげで、氏の同時代の作家が悉く陥った浅はかな似非近代的心理主義の感染を免かれるのである」(全引用)
                         ↓   
(修正後)この「処女の主題」のおかげで川端は、同時代の作家が悉く陥ってしまった浅はかな似非近代的心理主義の感染を免かれていると解説している(地の文)
(修正前)「(・・・)焦燥であるために一見あいまいな語法が必要とされる。しかしこのあいまいさは正確なあいまいさだ」(全引用)
                         ↓
(修正後)それは焦燥であるために一見あいまいな語法が必要とされるが、しかしそのあいまいさは正確なあいまいさであると、その表現方法を解説している(地の文)

実質的に引用符を取って「・・・と解説している」とつけただけです。これではいくら出典をつけてあるといっても、引用符による引用部分の明示ができなくなっている分かえって悪くなっています。その点も会話ページで説明しましたが、被依頼者はこれで問題ないという見解のようです。

上の修正に先立って、私は部分的に「このような感じにできるのではないか」という要約の例を提示しました。以下のようなものです。

(元の文)「芸人は徳川時代、河原者などと軽蔑されてきた。しかし一方後白河法皇が、白拍子などの今様の歌や踊りに夢中になり、『梁塵秘抄』を編纂されたように、上流貴族と卑賎視された芸人とは不思議な交歓があり、彼らの芸は能、狂言、歌舞伎など次々に上流階級にとりいられていた。そういう芸人に対する特別のひいき、さらには憧憬という日本人の古来からの心情を、新しく原題に生かしたのが『伊豆の踊子』である」[4]と解説している。
                         ↓
(要約例)(奥野によれば)日本の歴史において芸人は軽蔑されてきたが、一方で後白河法皇が白拍子の芸をひいきにして『梁塵秘抄』を編んだりしたように、芸人と上流階級との間にはしばしば交歓があった。奥野は「伊豆の踊子」が、そうした古来から日本人に見られる、芸人に対するひいき・憧憬の心情を現代に生かした作品だと論じている。
(元の文)北野昭彦は踊子について、「<私>の踊子像はその時々で多面的に変容する。彼女は、ユングが元型的形象の一つとしてあげた<コレー像>に似ている。コレーとは、少女、母、花嫁の三重の相において現れる永遠の乙女である。『コレー像は未知の若い少女として登場』[11]し、『しばしば微妙なニュアンスを持つのが踊り子である』[11]とされている」[12]と解説している。
                         ↓
(要約例)北野は作中で語り手の抱く踊子像は多面的に変容していることを指摘し、彼女がユング心理学における<コレー像>に似ていると論じている。(北野によれば)ユングが元型的形象の一つとしたコレーは、少女・母・花嫁の三重の相を持つ「永遠の乙女」であり、しばしば「未知の若い少女」として表れ、また踊り子の姿として表れるときには「微妙なニュアンスを持つ」。

()内は入れても入れなくてもいいというようなつもりで書いています。出典は省略しています。被依頼者の意向に合わせてなるべく原文を尊重したのであまり「要約」にはなっていないのですが、少なくとも直接の引用は最低限にし丸写しを回避することはできているのではないかと思います。上記の要約はあくまで例であり、過不足があれば書き足したり消したりしてもらえればよいと考えて提示したものなのですが、依頼者は「ただ上っ面の意味だけ伝えているだけで、奥野が言いたいニュアンスが致命的に損なわれていますし、北野昭彦に関しては、全然意味が違います」と頭から否定し、「あなたは日本文学に関して口出しする資格はないでしょう。単なる体裁のために、内容の正確さを損なわないでほしいので、以後お願いですから余計なことはしないでください」と表明されました[1]。その後行われたのが上に示したような修正です。

私の要約に対しては「言霊が失われている」といったことも言われており、前述したような依頼者との意見対立を差し引いても、被依頼者は「論点をかいつまんで(要約して)地の文で紹介すること」に対して過度に神経質になっているように思われます。被依頼者は特に他者からの修正を拒んでいるわけではない、と表明されているのですが、上記のように「ニュアンスが失われている」「言霊が失われている」というような理由で要約が拒まれ、上に示したような「引用符をとっただけ」のようなものしか許されないということであれば、被依頼者が比較的多数の日本文学作品を執筆されているだけに、この分野の記事の今後の質の向上・発展の障害となると考えます。これらが第二の論点およびコメントをいただきたい点の二点目です。--頭痛会話2013年6月13日 (木) 18:10 (UTC)[返信]

依頼者の見解[編集]

私は被依頼者について以下のような問題があると捉えています。

  1. 批評の要点をとらえて地の文で「このようなことが論じられている」というふうにかいつまんで紹介することができず、結果として「批評そのもの」の引き写しになってしまう。またそのことを自身の問題点として捉えることができていない。
  2. 三島由紀夫をはじめ、作家・論者の文章に対する過度な神聖視があり、このことが上記の「文章を要約し自分の言葉で述べること」に対する妨げになっているだけでなく、記事に対する他者の手出し・口出しに過度に敏感になるという結果を招いている。他者の修正を受け入れる用意がある・自分でも修正を試みているといった表明はされているが、上の経緯を省みるかぎり実質的には他者からの本質的な意見・介入を拒んでおり、「記事の私物化」の傾向が見られる。

文学作品の批評では特徴的な言い回しやレトリックが用いられることもあり、批評の紹介ではある程度の量の引用をやむを得ず行うような場合は無論あると思います。また受容に関する二次情報源が見つからないような場合(伊豆の踊子などでそういったものがないはずはないのですが)、評の羅列のようなかたちになってしまうこともある程度は仕方ないでしょう。原文のニュアンスを尊重することもそれ自体としては文学関係の執筆者に求められる基本的なスタンスであろうかと思います。しかし被依頼者の場合、百科事典に求められる限度の範囲を明らかに超えています。

2点目に関して、過去にノート:三島由紀夫での議論で、記事内容にちょっと問題を感じて査読依頼を勧めたことがあったのですが、「三島について知らない人の審査にゆだねて、単に記事を簡略化する方向にするのは反対です」と表明されたことがありました。主題に対して無知な者がよく知らないまま不適切な簡略化を勧めたりしていたら無論問題ですが、それは査読依頼で他者の客観的な意見を聞くことを頭から拒むことにはつながらないはずです。このあたりからも作家に対する神聖視・記事の私物化の傾向がうかがわれるように思います。--頭痛会話2013年6月13日 (木) 18:10 (UTC)[返信]


付記 手持ちの新潮文庫『伊豆の踊子』(改版以降)で、伊豆の踊子の三島由紀夫の論評部分を確認したのですが、三島が「伊豆の踊子」を論じている3頁弱のうち、1頁ほどがまるまる使われていました。3頁のうちの前半は主に作品の成立事情について触れており、実質的に「伊豆の踊子」の主題について論じている部分の全文が用いられる形になっています。記事中で地の文で書かれている部分も言い回し、語順ほぼそのまま三島が書いたものに従っています。私にはこれは引用ではなく「引き写し」に見えます。最近被依頼者が加筆された密会の情報源(新潮文庫および全集)も確認しましたが、一見地の文で書かれているところもかなりの部分が「実質的に引用符を取っただけ」であるようです。

それから「概要」部分でも「たえず果敢な実験を試み、一作ごとに虚構の新しい地平を開いて見せるその多彩な小説技術はつとに定評があ(るが)」(密会)、「自力を超えるものとの格闘に真摯な若者だけが経験する人生初期のこの世との和解」(伊豆の踊子)といった特徴的な長い文章が引用符なしで一字一句そのまま記事に用いられています。出典は示されているので著作権上は問題ないのかもしれませんが、こういった方法は記事の品質という点で疑問です。--頭痛会話2013年6月13日 (木) 18:10 (UTC)[返信]

被依頼者コメント[編集]

上で頭痛さんは様々な理論武装で私を批判されておりますが、反対に私は頭痛さんのそういった姿勢そのものを批判したいと思います。それを要約して言うとこういうことになります。

「頭痛さん自身は何の記事向上のための執筆努力は実際に何もやらずに、人にだけ完璧性を強要する大上段な態度と、自治を過度にふりまわし、それに対してこちらが聞き入れて実際に記事改善を試みているにもかかわらず、「コメント依頼」をし、いつまでも執拗に様々な方法で絡み続けようとする姿勢。そのしつこい絡みによって私の見直しにかかる時間が阻害されること。人の執筆努力に対する思いやりのなさと、許容性寛容性の欠如の姿勢」

私「みしまるもも」の会話ページでのこれまでの議論はこちらです。[2]

今回の経緯[編集]

具体的にこれまでの経緯を申しますと、私が大幅加筆し強化記事に掲載された『伊豆の踊子』を一例にとって、「作品評価・解説」項目の私の引用を用いた執筆方法について、頭痛さんから「もうちょっとなんとかなりませんか」という不快感のある見出しで、見直しを求められました。すでに以前、頭痛さんから指摘を受けたこともあり、そのときから私はすぐにそれを受入れて、その点を気をつけてやっておりました。私も無駄な長い引用は避けるようにしており、それなりに十分考慮し執筆してましたが、再びそれではダメだということでした。私は、作家やそれなりの意義のある文芸評論家が、その作品を的確に解説している発言の重要ポイントはそのまま活用させて、より正確で解りやすい、その作品の主題を浮き彫りにするための項目として充実されるように努力していましたから、「記事未満」という頭痛さんの言葉で非常に傷つきました。内容的にも自信を持って執筆したものですから、そのような失礼な言葉は正直腹立たしいものでした。会話の見出しも「もうちょっとなんとかなりませんか」という何か人を見下してバカにしたものでした。そういう言葉で傷つけられたので、そのこと言うと、人の意見を聞き入れられないのであれば「執筆するな」、とも言われました。そのような上から目線の頭痛さんの態度に不満を覚え、私も自分の努力を理解してもらいたく、議論が白熱しました。「記事未満」と言われのはとても心外でした。

私はこれまで日本文学関連の記事を新規にも沢山書きましたし、大幅加筆もし、ありがたいことにそれらはメインページにも何回も提示していただいて多くの方から推薦や支持していただきました。今回の『伊豆の踊子』も強化記事に載ったものです。私は虚偽の記載も独自研究もしておりませんし、きちんと出典を付記した上で、沢山あるそれぞれの論者の長い論文の中から、主要な発言者の評論の重点を部分を活かすために、きちんと規定に則って引用符として組み入れていたので、著作権侵害もしておりませんでした。むやみに無駄な原文引用はしないに越したことはありませんが、文芸評論家や作家などの著名人の批評なり発言は、公の新聞や雑誌にコメントされているものも多く、その発言自体もそれぞれの人物の思想や個性を反映している歴史的価値のあるものですし、端的にコメントしているものは、原文活用しても何ら問題ないことだと思いますし、ウィキのWikipedia:引用のガイドライン [3] にも、

「しかし時には、参考文献に掲載されている文章をそのまま抜粋し、記事中で紹介することによって、記事の主題に対する読者の理解が著しく向上することがあります。」

と書かれており、作家や政治家などの著名人の作風や思想なりが色濃く反映しているものは、原文引用が許容されております。

それでも、私は頭痛さんのおっしゃることも承知しておりましたので、無駄な引用は避けて、それなりに読み手により解りやすく、より正確な、文学作品記事として充実した内容、主要な必要基本情報、作品評価情報は網羅させ、記事向上に努めておりましたし、これまで私が過去に執筆した記事も私のペースで、短くできる原文引用は直しておりました。ですから、今回の頭痛さんの物言いや、ルールを傘にして大上段で、何か今すぐにでも修正しなければならないかのような強圧的な態度は、いままでの私が『伊豆の踊子』に費やした努力も何も考慮されずに非常に苦痛でした。私としてはただ無駄な長い引用をしていたわけでなく、文学的観点からどうしても省いてはいけない原文の言葉のことを、頭痛さんには、わかってもらおうとしましたが平行線でした。

さらに、頭痛さんが奥野や北野の一例にとって示した要約文の「誤読」を私が指摘したことも、だいぶ気に入らなかったようで、全く自分の文章読解の間違いも認める素直な心もなく、このコメント依頼の中でも、まだご自身の誤読を正当化しようと詭弁を労しています。私が指摘している意味さえも解らなかったようで、頭痛さんが一例にした要約文の中の、

しばしば「未知の若い少女」として表れ

が、そもそも致命的な誤読で、ユングの説いた『コレー像は未知の若い少女として登場』というのは、「規定概念」ですので、その前に「しばしば」なんて付けること自体がおかしいのです。頭痛さんが、まるでその文章全体を読みこなしていない何よりの証拠でした。そのように頭痛さんは、原文を歪曲させてしまうような要約例を示されたので、私は、「むやみに原文を単に短く要約することだけを主眼においた執筆」そのものの危険性を指摘させていただきました。またそもそも頭痛さんはそれぞれの論文を全文ご覧になってもいず、その作品背景そのものも御存知ないので、論者が必要として書いている言葉も簡単な気持で省いていました。それでは、その評論自体の意味が損なわれ、その前段からの繋がりや、作品自体の主題解説がおかしくなってしまうことも申し上げましたが、頭痛さんは単に「短く要約すること」ばかり考えている人なので、文学作品の内容のことなど二の次のようないい加減さでした。

改善に向けての経緯[編集]

しかし、このままではいつまでも頭痛さんが食い下がらず終わりませんので、私自身ももう一度、引用部分を見直して無駄に長いところを見直してみるということで、今まで過去に執筆した記事をもう一度見直し、その方向でやっていることを告げました。[4]

しかし、その後も頭痛さんは、誤読を指摘されたことがよほどくやしかったらしく、まだダラダラと自分は誤読をしていないと私に絡み続け、私が『伊豆の踊子』を直すことを2、3日中にやらなければ、テンプレを貼るというふうに、時間制限されました。そのようなテンプレを付けたところで、文学関連の記事は過疎地帯でおそらく誰も加筆に来ませんので、(現に『伊豆の踊子』も私が大幅加筆するまで、10年間も小説記事の形をなしてませんでした)、結局は私が見直して執筆するしかありませんから、もう一度手もとに奥野の論文を取り寄せるために、「少し時間に余裕をください」と頭痛さんにお願いしました。すでにその時、他の記事も手直し中でしたし、その他のものも加筆途中でしたので、いきなり『伊豆の踊子』を2、3日で直せと言われても、私にもペースがありますし、そんな時間制限を頭ごなしに区切られて強要されること自体がおかしなことだと思いましたので、「もっと長い目でみてください」とお願いしました。その際に、もしそれが待てないのであれば、頭痛さんが直してくださってもいいですよ、と私は申しました。 [5]

間に入ってくださったKs aka 98さんも、私の執筆が何ら虚偽の記載や著作権侵害もなく、明らかに百科事典から逸した記述を繰り返しているわけでもないとおっしゃってくださいました。そして、頭痛さんの姿勢そのものを批判しています。 [6] [7]

そして私が、資料が手元にある三島の論文のところを、先に直したところを報告し、頭痛さんがチェックすると、まだダメだと言い、「剽窃」だと貶されました。私の文脈は、作家の評論をガイドしたような記述で、「○○は、」とその発言者名も文章内に明記し、その発言者の論であるように記述しており、私本人があたかも『伊豆の踊子』の作品評をしているように記述してませんので、「剽窃」になるはずもなく、何か頭痛さんの言うことはまったくの難癖にしか思えませんでした。それから、頭痛さんは三島の論が新潮文庫にあるほとんど書いていると言いますが、三島の論はそれだけではありません。他の文献にも沢山あるので、これはほんの一部の主要な三島の『伊豆の踊子』論です。頭痛さんはたったの文庫本しか見ていらっしゃらないから、その程度の知識です。私は論者の発言の意味を損なうことなく、補足も加えてより解りやすいように、文脈の流れを考慮して直しましたので、ガイドラインにも沿ったやり方です。

このように私としてはそれなりに努力し直したので、「それでは頭痛さんが手本を示してください」と私はお願いしました。しかし、いっこうにご自分では何の執筆努力するつもりもないようです。人のあらを探すようなことだけは熱心にやるだけです。このコメント依頼でもそういうことには全力を挙げてます。ここで頭痛さんがいちいち挙げられた数々の作品も、私は昨日も、手直しを少しずつやっております。見直すのにも、もう一度その論者の全文を読み直して考え直さなければなりませんから、そんなにスーパーマンのように早くできません。私には私のペースがあり、見直すのにもそれなりの時間を要するのです。私は機械じゃありませんし、頭痛さんの奴隷ではありませんよ。今現在、私は『伊豆の踊子』見直しを進行中であり、頭痛さんがそういうふうに、前の版をわざわざほじくり返すこと自体が後ろ向きな態度そのものです。他のものも現行のもの『みづうみ』『東京のプリンスたち』『楢山節考』『太陽の季節』を載せておきます。見直すものは沢山あり、どれもこれも完璧にすぐに手をつけられません。少しは私を人間扱いしてほしいものです。

密会』に関しても、頭痛さんは安部公房の全集を見たとおっしゃってますが、本当に見たのなら、私が安部公房の言葉をよく吟味して、私なりに纏めて「作品評価」を要約していることがわかるはずです。あなたが安部の全集まで丹念に見たとはとても思えません。文庫に書かれたカバーのものだけで、あたかも他の安部本人のところまで全部が、そうであるかの如く印象づける、頭痛さんの言い方は悪質です。もし本当に全集までそこまで調べて手間暇をかけているのならば、それこそ頭痛さんが手本を示して、今すぐ加筆なさればいいのではないですか。ちゃんと中身を把握して読んでいるのであれば、できるはずですよ。私は頭痛さんにストーカーのように追チェックされるような違反行為はしてませんので、私には頭痛さんのこの一連の粘着的な行為そのものが、何か個人攻撃の様相ではないかと思います。そこまで人に「完璧性」を求めて執拗に絡む暇があるならば、ご自身が一から苦労をして資料を集めて調べ、中身を把握し、上手く纏めて記事向上に努めればいいのではないでしょうか。人のアラ拾いだけするのなら、そんなことは誰にでもできることです。

頭痛さんは、これまで長いことウィキにいて文学関連記事を見廻りながらも、『伊豆の踊子』に対して何一つ加筆らしきものも一切しないで放置していましたし、そもそも日本近代文学関連記事の加筆はしていない方です。それでも私はいままで、頭痛さんのアドバイスは善意にとっており、今回もいろいろ議論はありましたが、私はすでに実際に記事向上への改善努力しております。それにもかかわらず、いつまでもこのようにコメント依頼までして、私に完璧を強要し、なにかと絡み続けてきます。私の直しにもまだ至らない点があるかと思いますが、頭痛さんの執拗な私への絡み方は少し異常だと思います。

頭痛さんは、肝心要の実際の記事編集は何もなさらずに、ただ人に要求するだけです。やっていることといったら、中身のことは二の次で、箇条書きがどうとか、概要の項目はいらないとか、そんなことばかりです。私がこれまで加筆などしてきた記事では、独自研究や虚偽などの記載が沢山ありました。頭痛さんはずっと長い年月(5、6年でしょうか)文学記事を自警団のように見廻りながら、肝心の中身のチェックはザル状態でした。私にはいったい頭痛さんという人が、この日本文学関連内で一体なにを目指しているのか、さっぱり解りません。

被依頼者の追記・「主従関係」と著作権侵害について[編集]

皆さん、コメントありがとうございます。

あともう一点、頭痛さんが上の方で述べていた「主従関係」と著作権侵害ということについて、触れておきたいと思います。

「引用文」と「書き手の文」の主従関係については、通常の場で、何かの自論なりを展開して発表する一般的な論文などには、この概念は明確に当てはまります。「主」の方が少ないと他人の論文引用「従」が大半をしめたもので、「自論」とはなりませんから、著作権侵害の問題が生じます。しかし、少なくともウィキ内では、書き手の文章が、法律的にいう「主」というものにはならないので(「主」というものにはそこに何らかの独自の論がなければ、「主」とは言えないからです)。ウィキ内の記事では、どんなに自分の文章に直して要約したところで、それは元々、何らかの参考文献からの内容なので、そもそもそれすらも、引用的なものであり、一般的意味では「従」でしかありえないと私は思うのです。それを逸脱すれば、「独自研究」となるでしょう。

なので、ウィキ内では、この一般的にいう「主従関係」云々で、頭痛さんが私の執筆したものを、引用符のところを太字で区別して、ただ機械的にそこの分量の多さで判断して著作権侵害になると短絡的に言うこと自体が、何か根本的に的外れなように私は思いました。どうあがいても、「主」が発生しえないところでの関係性では、法律的な意味での「主従」も何もないと思います。

頭痛さんは、そこのところを何か勘違いし、ウィキ内での「主」と言われている「書き手の文」が、法律的な「主」だと思い込みをしているのではないでしょうか。それでただ、引用符が多いという単純な判断で、「従」(引用符)が多いから著作権侵害だという短絡的な考えに陥っているような気がします。そもそもウィキ内では、「引用符」でないところも、一般的な論文の概念から言えば、「従」です。独自の論旨を何ら綴っていないところでは、いくら「原文引用」でなく、執筆者自身の文章表現で上手く纏めたところで、そこの内容自体が何らかの論や資料や文献からの参考ですので、ウィキ内での「主」も、一般的な概念では「従」だと思うのです。なので、一般的な「主従関係」の目線で、頭痛さんが、著作権ルールを傘にして、私のケースの執筆を著作権侵害の観点で批判することは違うと思うのです。

もちろん、ウィキ内でのルール方針の、「独自の表現」を心掛け、それが「主」とするのは解りますが、それでもって、「主」(ウィキでの)が少ないから、あたかもすぐ法律的な主従関係で著作権侵害になるかのような、頭痛さんの主張は、法律的には無効です。もし私が「作品解説・評価」の項目で、論者たちの引用を利用しながら、一つの方向性に纏めようとしていたり、第三の結論にもっていこうとしていたりしていれば、ウィキ内での「独自研究」のルール違反にもなりますし、また、主従の関係での著作権侵害にも当てはまるでしょう。でも私はそれぞれの論者のパラグラフはちゃんと独立させてますし、組み合わせて一つの方向に纏めてもいませんので、どちらの違反にもならないはずです。また、引用符をとって自分の表現で書いているところが、原文とほぼ近くても、私自身がそれを論じているようにはしてませんので、「剽窃」にもなりえません。それがたとえ拙い完璧でない表現でも法律違反にはなっていないので、この点は頭痛さんにご理解願いたいと思います。

そして、ウィキ内でのルール方針の、「独自の表現」を心掛けて無駄な原文引用を減らすというのは、頭痛さんのおっしゃるとおり、これからも守っていかなければなりませんので、私は自分のやり方を見直して改善努力をしていきます。なので、私の執筆は完全ではないかもしれませんが、頭痛さんにも長い目で温かく見守っていただきたいと思います。頭痛さんは「不思議の国のアリス」などで活躍していらっしゃいますし、きっと解り合える方だと信じていますので、今後ともお互いに誤解を解消しながら進んでいけたらと思います。--みしまるもも会話2013年6月16日 (日) 12:10 (UTC)[返信]

  •  61.124.199.2さんへの疑問点についてのお返事です。
    法律的には、字句などを変えて自分の言葉でまとめなおす、いわゆる「要約」でも、その内容が原文の内容や論旨と同じならば、「複製」と同じ扱いになって、典拠を脚注などで示す必要性があり、「抜粋による引用」と同じ扱いになってます。なので、ウィキで行われている「要約文」も、著作権上では基本的には、「抜粋による引用」と同じ扱いとなり、法律的な観点での「主従関係」でいう「主」とはなってないようです。大きな意味では、どちらも「引用」には変りはないので、「原文を抜粋した引用」と同じく、「要約による引用」も「複製」であるために、「正当な範囲や主従関係、必然性などの引用の要件を守らなければならない点は、抜粋による引用と同様である」と定められているようです。ご参考までにそこをリンクしておきますね。--みしまるもも会話2013年6月17日 (月) 06:57 (UTC)[8][返信]

コメントおよび議論[編集]

  • コメント 論点1)最善ではないとしても過剰ではない。論点2)論点1が大きな問題ではないのですから、本来譲歩も妥協も必要ない。/後で追記します--Ks aka 98会話2013年6月14日 (金) 05:17 (UTC)[返信]
以下、追記分です。
さて、両者のやりとりは、去年の夏から、ほぼ継続して行なわれているようです。
頭痛さんの指摘が的を射ている部分もありますが、個々に委ねられるべき場合に頭痛さんが譲らないでいる場面もあるように思います。
まず、11月の時点での利用者‐会話:みしまるもも#作品評価・解説の書き方についてでは、権利侵害が論点であったようには見えません。6月に入ってからは、権利侵害を論点としているようにも見えますが、個別の記事についてではなく一般論として話しているようでもあり、要約の方法が主題のようにも見えます。削除依頼も出されていません。
確かに最善のまとめかたではないと思いますし、量的に不安を感じることは理解できます。しかし、文芸批評においては長めの引用を行なうことは慣行として存在しているように思いますし、評論はもちろん、研究論文であっても文章自体が科学論文とけっこう異なり、かっちりとした論理的な文章ではないですから、評者の表現を用いる必然性はあります。主従関係は、この場合、記事全体と原著作物で考えるのが妥当です。まとめサイト的に、そうした引用/転載だけで記事を構成しているのではなく、記事全体の中で評価の節を置いてさまざまな評論を挙げ、紹介していくという形であれば、権利侵害を問われる可能性は低いと思われます(個別に問題があることはあるかもしれませんが)。
ガイドラインやガイドブックは、せいぜい「ガイド」です。よく分かっていない人が執筆する時に参照してもらうためのもので、基本的なことを、詳細をはしょってでもわかりやすく、より安全側に倒して書かれています。引用についての判例や学説は、近年、比較的流動的で、頭痛さんの侵害の可能性の説明も、みしまるももさんの抗弁も、理屈として、じゅうぶん正しいものではないと感じます。しかし、一度だけならともかく、「もうちょっとなんとかなりませんか」と題して指摘し、コメント依頼に持ち込むのであれば、問題視する側に、より適切な判断、説得力のある説明が必要でしょう。執筆の姿勢としても、先行研究をまとめていく作業は、以前問題とされていたような、アニメの台詞だけを追加していくような編集や、時事的な記事をニュース記事の切り貼りで作成するのとも異なり、百科事典の記述を作成する上で不可欠であり、労力を必要とするものです。
権利侵害を論点としないのであれば、みしまるももさんが手掛けているような文学作品は、数多くの研究や評論があります。列挙ではなく整理したまとめを書くためには、それらの主要なものを総覧する必要があります。ウィキペディアにおいては、一人で総覧できずとも、共同作業の形で行なえばよいのですが、その際に評論や研究の著者の意図を損なわないようにという配慮は重視されるべきことでしょう。かいつまんで要約することも必要ですが、その「かいつまみかた」には、著者の主観が入りますし、様々な関連知識が必要となることもあります。ウィキペディア日本語版の現状では、それらを独自研究と称する人もいますから、「衝突を避けるために、要約を避けるという判断」を批判するのは難しいです。それは、誰かにさせるのではなく、自分で手本を示さないと(個人的には、そうした要約を独自研究とみなすのならば、情報源を参照し、不当に偏った要約となっているという判断をした上で、記事を修正するべきであり、ただ単に要約していることをもって独自研究というべきではないと思いますが)。
伊豆の踊り子での、頭痛さんによる、奥野、北野の論についての修正意見は、明らかにと言えるほど、記事の質を低下させるものだったと思います。「社会の底辺に生きる」(馬場)「下層階級」(三川)という捉え方ではなく、「芸能史を踏まえている」からこそ奥野の論を北野が評価し、それを踏まえて記事に取り込まれている。引用では、奥野が「芸人は」と文をはじめ、軽蔑の対象であることを説明し、その上で「しかし一方」と転じて「特別のひいき」「憧憬」を持ち出すというところで、単純な「旅芸人」理解を排して、「芸能」としての理解を持ち出し、それが必要なのだと主張していることが読み取れますが、頭痛さんの要約では読み取れません。執筆者への批判または助言として、このようなことをされてしまうと、やっぱり要約は危ういと思われてしまう。しかも、記事中で奥野の当該箇所の記述でも北野論文は示されていますし、北野の論文はネットで閲覧可能なので、記事中でリンクも示されていて、容易に目を通すことができるのですから、口挟むのなら目を通すべきでしょう。正直、頭痛さんは、もはや致命的に信頼を損なってしまったと思います。
二つの論点に戻ります。
依頼者の見解の二つの問題についても、批評の要点をとらえて、適宜引用して紹介することは、批評そのものの引き写しではありません。また、やや強めながらもほどほどに論者の表現を尊重しているとしても、過度な神聖視をしているようには思えません。、他の利用者からの妥当でなく、納得できない指摘を受け入れず、しかしその利用者が自ら先行研究や作品を参照して修正することを認めているのですから、「記事の私物化」をしているわけでもありません。
概して、頭痛さんの主張はウィキペディアの方針などから見て、大きく間違ったものは少ないと思うのですね。ところが、言葉足らずだったり、説明の方向が斜め上だったりして、その主張が受け入れられないことがある。それから、どちらがいいかは確実ではないこともあるし、よりよいのは確かだけど、相応の労力を必要とすることを他者に求めてしまっていることもある。自分が提案したり編集や議論に関与していると、自分の判断や議論の進め方が優先されると捉えている節もある。他者が書いた記事を読み、感想を書いたり、修正の提案をすることは、共同作業の中で必要なものだと思いますが、ウィキペディアは、頭痛さんの研究室で論文指導をしているのとは違う。それらを一度考え直し、整理してみてほしいと思います。
なお、みしまるももさんの著作権についての反論は、かなり危ういです。ウィキペディアだから、法律上問題となるものが許されるなんてことはありません。前述の通り引用の要件については最近ややこしいのですけれど、ここでは、記事全体を「主」、作品についての解説を行ううち、その評価や解釈についての先行研究をまとめ、そのなかで引用している原作品が「従」というかたちで理解するのがよいと思います。
みしまるももさんの言う「独自の論」は、法的には「主」ではないです。学問・研究の世界での「主」ですね。ウィキペディアでは、「独自の論」は排除するよう求められるので、執筆者の作業は先行研究に対して研究の世界の観点からは「従」となる(それはそれとして評価もされますが)。
法的には、ある作品を百科事典の項目としてどのように説明するか、どのような構成で、どのような先行研究を用い、どのようにまとめ、どのような表現にするか、という部分が、記事の執筆者の創作性であり、記事全体を「主」と捉えることになります。
61.124.199.2さんとのやりとりについて、字句などを変えて自分の言葉でまとめなおす場合、確かに「複製」となりうることもありますが、みしまるももさんの作業でやっているようなものだと、著作権法上は保護されない論旨を汲み取り、自分の言葉で表現している(ので、複製ではない)、と考えられるもののほうが多いでしょう。創作性の高い物語の詳細な筋書きをそのまま言い換えるような場合、複製とされることはあります。
引用するのは、表現であって、内容ではありません。執筆者自身の言葉で、先行する研究や評論の全体をまとめる場合は「表現」を用いていないのですから、著作権法の保護を受けず、著作権法で言うところの「引用」ではないのですから、主従関係を満たすことを含め、引用の要件を満たすことが必要とされません。自分の論と区別できなかったり、出所の明示がなければ、剽窃にあたるでしょうし、社会的・倫理的に批難されることになります。--Ks aka 98会話2013年6月18日 (火) 05:54 (UTC)[返信]
コメント 依頼者コメント 利用者‐会話:みしまるもも#もうちょっとなんとかなりませんかの議論を追っていただけていたのであれば私が著作権上の危惧があることのみを問題にしていたのではないことはわかったはずではないかと思います(「法律上の問題を置いても、一般の文章作法としてはそうなるでしょう」)。「権利侵害を論点としているようにも見えますが」という部分は誤解ですが、これは私は「主従関係」や「必然性」などを繰り返し言い過ぎたせいかと思います。依頼文も説明不足であったかも分かりませんが、「過剰な引用」というのは法律上アウトかというだけでなく、記事の書き方として過剰ではないか・事典的な記述になっていないのではないかということです(ただし、「引用を過剰に行わない文章作法」は著作権に対する配慮に基づくものでもあるでしょうから両者は無関係ではないと思いますが)。百科事典の記事なり、あるいは作品の解説なりの一節において、それが他者の長文引用のパッチワークで文章が占められている、そういう書き方が一般的・慣例と見なせるような分野なり業界なりがありますか。私は批評・研究を(通覧とはいえないまでも)紹介するに際して長文の引用で済ませているような文献はちょっと見た記憶がありません。あるのなら実例を教えてください。
「最善ではないとしても過剰ではない」というご判断ですが、「最善」と「過剰」の間には随分開きがあります。その中には「百科事典の記事として最低限のレベル」のラインがあるでしょう。私は上のリンクで示したような節の状態は「百科事典として最低限の品質を備えていない」と判断しています。Ks aka 98さんは上の会話ページで、このような引用方法が「虚偽や権利侵害や、明らかに百科事典から逸した記述」には当たらないと意見表明されています。しかしWikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアはリンク、画像、メディアファイルのミラーサイトや保管場所ではありませんには「原文通りの表記で提供されなければ意味の無いような性格の素材を集めたりする場ではありません。」とあります。引用はこれに該当するでしょう。で、あれば「長文引用の実質的羅列」は「百科事典から逸した記述」となりえます。引用が多すぎるなら後でまとめりゃいい、それはそうでしょうが、それは引用が多すぎるという問題を論じることの妨げにはなりえません。我々は事典の記事を書いているのであって記事の素材を記述しているのではありません。「妥当な落としどころ」という判断に同意することはできかねます。
北野の文献についてはオープンアクセスになっていることに気づかず(脚注の下に気づかなかった)、必要があれば後で図書館でまとめて閲覧するつもりでいました。このあたりの確認は杜撰であったことは認めます。ただし、北野の論文を読んだ後でも奥野健男の文章を十数行にわたって長文引用する必然性があるとは到底思えません。奥野の論が「芸能史を踏まえている」ことで重要であるのであれば端的にそう書くこともできるし、北野論文が示しているようにテクストに関連付けて具体的な説明を行うなりする必要があるでしょう。能・狂言・歌舞伎などに触れる必然性がこの記事のコンテクストの中で示されていますか。どちらにしても私の要約をベースに足りない部分を加筆修正するなり、別途要約案を出して検討するなりできるはずです。下のみっちさんのコメントに対する返答にもなりますが、そうした試みまでを否定される理由があるとは思えません。
「概して、」以下はもうちょっと具体的に指摘してもらえると皮肉ではなく助かるのですが。感想だけ書かれても困ります。「つきまとい」であるとはまったく認識しておりません。私からみればみしまるももさんの執筆量が多く、かつ(議論中の問題点を除いても)スタイルマニュアル等からの逸脱が多いというだけです。と、いうか、マラー/サドの改名提案を持ち出されるということは私が改名提案でのみしまるももさんの意見に反感を持って意趣返しを始めたというみしまるももさん自身の説明を鵜呑みにされているんですかね。
なお、被依頼者が新たに加筆された古都 (小説)を見る限り、少なくとも引用の量や「引き写し」に関しては顕著な問題はなくなっているように思います。--頭痛会話2013年6月19日 (水) 11:17 (UTC)[返信]
  • コメント この依頼やみしまるももさんの会話ページで繰り広げられているやりとりを見るにつけ、これだけの分量を書く時間と精力をなぜ記事に費やしてくれないのかと思わずにいられません。引用が多すぎるという頭痛さんの指摘は、いわれてみれば確かにそのとおりかもしれませんが、「批判するだけなら(記事を)書くより簡単」です。いちばんよいのは、みしまるももさんもこれなら言われても仕方がないと思えるような編集を実際にやってみせることでしょう。自分で手を入れるつもりがないのに人のやり方にいちいちケチを付けない、ということを私は別のところでも述べたと思うのですが、頭痛さんには考慮いただけないようで残念です。一方、みしまるももさんのコメントにも随所に頭痛さんへの感情的な反発が目立ち、これでは頭痛さんもなかなか引っ込みが付かないだろうと思ってしまいます。受け入れられることにだけ反応し、そうでないことは取り合わず、よけいな挑発はなしにしましょう。建設的な話し合いにならないと思われるなら、それ以上お付き合いする必要はありません。--みっち会話2013年6月14日 (金) 11:12 (UTC)[返信]
みっちさんへ 「逆襲」ではありませんよ。他の利用者と協調して編集できないのはむしろ頭痛さんではないでしょうか。私が少し坂口安吾の「文学のふるさと」について加筆しようとしたものを拒絶して巻き戻しているのは、頭痛さんです。よくご覧になってください。私は「文学のふるさと」もちゃんと読んでおりますし、坂口作品も読んでます。頭痛さんの書いた新記事に私が少しでも、加筆してはいけないのですか? 私は別に「原文引用」を書き加えようとしているわけでもありませんし、頭痛さんの纏めを壊そうとしているわけではありません。ここの件と「夜長姫と耳男」のことは別問題です。私はすでに引用を減らして執筆活動しております。私は頭痛さんに仕返しなどしてません。記事の「中身」そのものについて書き加えたいと思って書いただけで、何故私がブロックされなければいけないのか意味がわかりません。なにもかも私の引用問題のことと一緒にしないでいただきたいものです。--みしまるもも会話2013年6月21日 (金) 08:48 (UTC)[返信]
別問題ではありません。編集合戦は事実ですし、ノート:夜長姫と耳男においてみしまるももさんはこちらのコメント依頼での苦情を持ち込んでおり、到底記事の「中身」そのものについてのものとはいえません。私の意見を受け入れる受け入れないはご自由ですが、仮にみしまるももさんに対するブロック依頼が出されれば、私は躊躇なく賛成します。--みっち会話2013年6月21日 (金) 13:07 (UTC)[返信]
コメント 確かにこのタイミングで編集合戦を起こしたりノートページで改善を求めるのは頭痛さんへの仕返しと見られても仕方ありませんが、それを差し引いても起稿された記事に手直しや追記を行おうとするみしまるももさんの善意な取り組みに対しブロックの話を持ち出すのはいかがなものかと思います。--Louis XX会話 / 投稿記録2013年6月22日 (土) 05:26 (UTC)[返信]
「このタイミングで編集合戦を起こしたりノートページで改善を求めるのは頭痛さんへの仕返しと見られても仕方」ないと思うなら、それをやめるようにいうのは当然でしょう。あなたは私がなぜブロックに賛成するといっているかわかっているのですか。--みっち会話2013年6月22日 (土) 06:27 (UTC)[返信]
他者との強調がとれないからだということは存じ上げています。--Louis XX会話 / 投稿記録2013年6月22日 (土) 06:41 (UTC)[返信]
  • コメント 文学には全く明るくないことを最初に申し上げた上で、感想を述べます。みしまるももさんは非常に精力的に活動されていますが、もう少しペースを落としてもいいのではないでしょうか。「言霊」などという情緒的・感情的な表現が出てくるあたり、編集する対象への思い入れが、少々強すぎるように私には見えます。サブカル記事でいうところの「ファンサイト」的編集をやりたがるタイプの人との共通性があり、いつそっちへ陥ってもおかしくない危険みたいなものを、やりとりから感じてしまったというのが正直なところです。しかしながら、小説記事などではろくな物がなかった「あらすじ」の加筆における職人ぶりは素晴らしいですし、頭痛さんについても査読や記事選考などで、よくぞここまで丁寧に、と言いたいくらい細やかな指摘を下さって、尊敬する方々ですので、どうか双方前向きな方向に進んでいただきたいと思います。--Garakmiu会話2013年6月14日 (金) 12:00 (UTC)[返信]
  • コメント 会話ページでおおよその流れを見ましたが、正直、被依頼者に対する同情の念を禁じ得ません。確かに被依頼者のコメントには感情的な表現が多々見受けられますが、むしろよくぞここまで抑えたとすら感じます。(念のため書き添えますが、感情的になることを良しとする意見ではありません。被依頼者には、このような状況だからこそ、今一度穏やかな心を取り戻していただきたいです。感情に任せた書き込みが原因で「被依頼者にも大きな問題がある」などと言われるのは、本望ではないでしょう。)依頼者は「これだけの長文をここに書き込む暇があるなら記事を改善してほしい」とお思いになるかもしれませんが、逆にここまで書き込ませてしまったという事実およびその意味を、よく考えていただきたいと思います。本当にこの分野をより良くしていきたいとお考えなら、ぜひ自ら筆を取ってください。それが出来ない人ではないと信じています。--111.168.54.246 2013年6月15日 (土) 01:25 (UTC)[返信]
  • コメントうん?頭痛氏の指摘が妥当かは別としても、著作権に関して引用が問題になる場合、主になるべき「引用する」側の文章の種類なんて区別してたっけ?論文だろうがエッセイだろうが扱いは変わらないように思うが・・・。ウィキペディアで禁じている独自研究は、「ぼくがかんがえた」はダメだから誰か偉い人の考えを「自分の表現」で紹介しましょう、ということで、ウィキペディアの文章の大元になる発想・論述がどこかの既存の文献に由来するのはむしろ当然の事。それを自分の言葉で記述しなおしている限り表現を保護する著作権上の問題はなく、転載など著作権上の疑義が生じた場合でも、周囲の文章のアイデアの由来など関係ないのではなかろうか。 今回のコメント依頼の是非は別として、被依頼者氏の著作権の理解にいささかハテナと思ったので述べた。取り越し苦労であればご容赦。--61.124.199.2 2013年6月16日 (日) 16:05 (UTC)[返信]
     61.124.199.2さんのおっしゃることは私の言ったことと同様なことだと思います。「エッセイ」なども、「論文」に類するものなので、もちろん私が付記で述べたような「主従関係」が発生します。エッセイ・随筆、紀行文、感想文、ブログなどは全て、書き手の何らかの主体的意見や感想などの自発的なものが伴っておりますので、それらは私が付記で意味した「論文」と同じ範疇になります。それから、61.124.199.2さんのおっしゃているように、ウィキ内で「独自研究」にあたる執筆がなければ、基本的には著作権侵害に抵触することはまずはない、という御意見も私が述べている意味と変らないと思います。--みしまるもも会話2013年6月17日 (月) 00:12 (UTC)[返信]
      • コメント書き方が下手だったかしら。つまり、『著作権上で引用の主従関係が問題になる場合、「主」の部分が書き手の主体的意見であっても無くても関係ないのではないか、ウィキペディアのようにアイデアが他に由来する文章でも、表現がオリジナル(引き写しでない)限りは著作権上の「主」として扱われるのではないか』という事が言いたかったので、その部分でみしまるもも氏と見解を異にしてるように思ったのだけど。--61.124.199.2 2013年6月17日 (月) 03:07 (UTC)[返信]
    項目が分散しているので、私の付記を上に移動しました。61.124.199.2さんへのお返事はそこへ書きました。ごちゃごちゃになってすみません。--みしまるもも会話2013年6月17日 (月) 06:57 (UTC)[返信]
  • コメント 引用の量が多すぎるのは否めないと思います。著作権は表現を保護するものであって、事実・思想を表現するものではありませんので、事実思想を取り出して自分の言葉で書いた上で、その事実・思想の由来を出典として示すというのが良い方法です。「内容の同一性が保たれた要約による引用は翻案ではなく複製」[9]というのは出典がついていないし信頼できないと思います。文学解説集を作っているのではなく百科事典であるということも踏まえ、大幅に要約されたほうが良いと思います。テンプレを貼るくらいは気にしなければ良いと思います。著名な文学者による解説の列挙にするよりは、日本文学における本作品の位置づけということで書いて、各解説を引用すると良いかもしれません。現状だと、なぜ、その解説がそこに並べられているのか文学について詳しくない私には良くわかりません。--T6n8会話2013年6月17日 (月) 23:42 (UTC)[返信]
  • コメント 論点1について。冗長かどうかは引用の長さで判断するのでなく、どのような引用をしてるか?それがWikipediaで特筆すべきことなのか?を論じるべきだと思います。個人の会話ページで依頼者・被依頼者のみで話し合うのでなく、それぞれの記事のノートでどこまで引用を掲載するかを話し合えば良かったのでは?依頼者にとっては、問題が共通し2012年11月24日の利用者‐会話:みしまるもも#作品評価・解説の書き方についての続きと考え、2013年6月2日に利用者‐会話:みしまるもも#もうちょっとなんとかなりませんかで再指摘されたのかもしれませんが、最初の発言をいくら丁寧に書かれても、タイトルからして「もうちょっとなんとかなりませんか」では被依頼者にケンカ腰と受け取られても仕方ないと思います。依頼者・被依頼者は4月末からTemplate‐ノート:Infobox Filmで議論しあい、時に感情的になっていたこともあった後です。依頼者がそういうつもりはないと仰っても、被依頼者の第一声がそのように発してる以上、お二人で建設的な議論が進むのは困難と判断し、当該小説記事に告知をし、コメント依頼で第三者を募り、具体的な文案を当該記事のノートで練っていけば、ここまで紛糾することはなかったと思います。依頼者自ら、当該小説記事を編集する気はないならここまで長々と指摘すべきでないし、明らかに著作権違反なら削除依頼を提出していれば済んでいたはずです。
論点2について。傍から見てるとベテラン編集者が1年ちょいの編集者を「訂正の仕方をあーせい。こーせい。」と逐一指示してるようにしか見えず、依頼者はアドバイスしてるつもりだったのかもしれませんが、被依頼者にとっては高圧的に感じていたから、ここまで反論してきたとも言えます。被依頼者がここまで態度を頑なにする前に既述したとおり、それぞれの小説記事で議論の場を移し第三者を交え、話し合うべきでした。
Ks aka 98さんがご指摘されてる「概して~」は、依頼者の議論姿勢を的確に表してると思います。弁は立つけど、それが裏目に出ている。議論している相手を追い込むだけの反対の為の反対、反論の為の反論。依頼者がそういう意図はないと仰っても、第三者は依頼者をそう見てるということを重く受け止めてほしいと思います。「具体的に指摘されなければわからない」ということはないはずだから、今一度ご自身の議論姿勢を省みてください。
最後に、依頼者・被依頼者だけで解決できなかったので、第三者の意見を仰ごうという趣旨で始められたものでしょう?節名「コメントおよび議論」となってますが、第三者とも議論をしたいというお考えでしょうか?第三者が見方の異なるコメントをされたからといって、反論して何をどうなさるというのでしょう?第三者からのコメントを募るということは、当然、自らに対する厳しい見方も優しい見方もどちらも寄せられ得るのですから、少し落ち着かれて皆さんのコメントをそのまま受け止めてみてはいかがでしょうか。--Gladneed会話) 2013年6月21日 (金) 11:23 (UTC)--Gladneed会話2013年6月21日 (金) 11:42 (UTC)[返信]
コメント 依頼者コメント 私はあなたに一度か二度「自分の頭の中にしかないルールを持ち出すな」と言ったと思います。第三者のコメント欄は必要に応じて議論を行う場として想定されています(Wikipedia:コメント依頼/サンプル)。「利用者のコメント依頼」は依頼だけしてあとは第三者のジャッジをボケッと聞くだけの場として想定されているわけではありません。少なくともそんなルールはない。具体的な問題を検討すべき場で依頼者自身が見解を述べずにどうやって利用者間で意見調整をおこなうのですか。確かに逐一第三者のコメントに反論していてはコメントがつきにくくなり悪影響が出かねないという点はありますが、私は今回かなり間をおいて一度コメントしただけです。以前のコメント依頼で「第三者コメントに逐一反論しないほうがいい」という注意があったのでおそらくそれを見てそういうルールがあるのだと思い込んだのでしょうが、そのような思い込みに基づいて「少し落ち着かれて云々」などと説教みたいなことを書いていたら普通は逆効果になるでしょうね、もし相手が「落ち着いて」いないのであれば。
さて、「反対の為の反対」とはいったいどの反対のことですか。私とあなた(Ks aka 98さんも)とはTemplate‐ノート:Infobox Filmの議論で具体的な意見対立が生じています。左の議論はこのコメント依頼自体とは直接の関係はありませんが、依頼者(私)の議論態度云々というところにまで及ぶのであれば話は別です。この件についてはあなたもKs aka 98さんも第三者でもなんでもありません。だからコメントするなということではまったくありませんが、そうであれば少なくとも「第三者は依頼者をそう見てるということを重く受け止めてほしいと思います」「今一度ご自身の議論姿勢を省みてください」などと無関係面で書くべきではありません。Ks aka 98さんの「概して云々」も同じです。これまでWikipediaで活動する中でそういう者を何人も見てきましたが、私は「自分が関わっている問題系であるにもかかわらず自分には何の利害もないかのように「メタ視点」でコメントするヤツ」というのが見ていて一番イラつきます。私の意見に問題があるのであれば具体的に指摘してください。そうでないなら「意見対立者」から寄せられた印象論に基づく単なる悪口でしかありません。--頭痛会話2013年6月29日 (土) 12:26 (UTC)[返信]
  • コメント ウィキペディアの方針に通じた利用者Aが方針を楯にとって利用者Bを攻撃・挑発する→Bが逆上して変なことをやる→それを奇貨としてAが仲間を集め、Bをブロック依頼にかける→Bがますます逆上して変なことを続ける→「こいつはダメだ」という空気が形成され、Bがブロックされる。これまで無数に繰り返されてきた、こういったパターンに「みしまるもも」さんも嵌りつつあるようで残念です。ウィキペディアで生き残るためには執筆者として能力があるだけではダメです。政治ゲームで足を掬われないだけの世知がないと。--182.169.232.143 2013年6月21日 (金) 14:02 (UTC)[返信]
  • コメント 編集内容を見ましたが"みしまるもも"さんは文学の知識も豊富でまっとうな編集をしていると思います。対して"頭痛"は「改良しろ」とコメントするだけで、自分で「改良された」例を提示するわけでもなく、非常に横暴な態度に見えます。また"頭痛"の文学における知識は、極めて限定的、表面的で、とうてい"みしまるもも"さんにおよびません。また"みしまるもも"さんに対する威圧的、命令的な表現もみられます。"頭痛"が極めておこがましい。--114.166.112.23 2013年6月21日 (金) 15:23 (UTC)[返信]

コメント一連の経緯を見ましたが、どちらにも理があり非があり、それであるなら記事を書いている者を理としたいです。

利用者:頭痛さんの行為について。何ヶ所かで言ったことがありますが、問題があってそれを縮小させたり解決に導いたりするに至らない管理行為は管理行為ではなく「ごっこ」に過ぎません。

みしまるももさんの投稿に問題や懸念すべき点がありそこに理があるとお考えになるのはそれは各人の考え方に係る範囲でもあるでしょうから問いません。しかし、目的が如何にに正しくても、結果がどうなったか。それが全てです。結局、相手に理解させることも出来ず、かといって自分が引きさがるでも第3者を交えるでもなく、単に相手を感情的に逆上させただけ。部外者の目から見えるのは、はっきり言ってこれだけです。

問題があるにしても、2008年にアカウントを作成した、もうベテランといっていい頭痛さんなのだから、接し方というものがあるでしょう。2012年8月にアカウントを作成したばかりの利用者に接するのだから、Wikipedia:新規参加者を苛めないでくださいに充分配慮すべきなのに、それに沿った行動だとは私の口からは言えません。もとより、厳しく接するべき相手というのがいるのは否定しない。だけれども、相手はいちおう(いや、いちおうどころか質の高い)記事を書いている、あるいは書こうという意思を行動で明確に示している相手なのだから、考えるべきことは頭痛さんの側にあったはずです。まして、ではどうすればいいかという点を具体的に示すでもなく、示したかと思えば見当違い、だというのでは、何をかいわんやです。

繰り返し申し上げますが、結果を伴わない管理行為をしている、というだけで充分にダメです。

利用者:みしまるももさん。ひとまず申し上げます。頭痛さんとの関わりを記事を含めていったん断ってください。もちろん否定なさるでしょうが、今のように記事のノートで頭痛さんともめているようでは、みっちさんも諭されている通り、いい事態にはなりません。文学記事に寄与してくださっている、みしまるももさんのような方を失うのはあまりに手酷い損失ですから。

頭痛さんとみしまるももさんとの間、ということだけで言えばせいぜいウィキペディアというサイトの中で完結するローカルなことでしかないから、記事を書いている方の味方でいることを私は望んでいます。でも、著作権という法律上の権利が問題になってくるのであれば、私が個人的に味方したいという望んでもどうにもならない部分がありまして。

私自身もとくに著作権の専門家でも、文学に通暁しているわけでもありませんから、具体的にみしまるももさんのお役には立てません。ですが、上でコメントされているKs aka 98さんなり、みっちさんなり(すいません、勝手にお名前を出してしまいます)、善意の第3者として関心を持って下さっている方と、いったんお話をされてはいかがでしょうか。

くりかえし申し上げますが、(ひとのことは言えませんが)感情的になったら負けです。ひとまずは、時間のコミュニティがどちらが理があるか、最後は示してくれると信じてみてはいただけませんか。--ikedat76会話2013年6月22日 (土) 09:55 (UTC)[返信]

コメント 依頼者コメント 依頼時点ですでにログインから10ヶ月経過し、少なからぬ記事を投稿している利用者を「新規参加者」と見なすのは無理があるでしょう。記事に対する問題点を指摘する行為が「管理行為」だというご指摘も釈然としません。「管理行為」とはなんのことですか。問題点の指摘の仕方が下手だという批判をされるのは構いませんが、相手に問題がある可能性もあるのだから、問題がかえってこじれた、という結果だけを持って一方を難ずるというのは利用者の行為に対するコメントとしてアバウトすぎるのではありませんか。相手を宥めながらうまく問題点を指摘しろ、それができないなら放っておけ、というのは他に問題点の指摘をしてくれる者がいくらでもいるのでなければ説得力を持ちません。というかですね、ベテランの方が「味方(- 敵)」という風にわざわざ対立を煽るようなフレーミングをしながらコメントしないでいただきたいのですが。
「示したかと思えば見当違い」というところですが、私の案は本当に見当違いだったのでしょうか。何度も言うように私の案は過不足を調整して被依頼者も納得可能な要約の方法(地の文で書く方法)をさぐることを前提としたものです。被依頼者が私より引用元に通じているのであればその観点から「何が不足か」「何が違っているか」を具体的に指摘できたはずであって、それすらもできずに感情的に反発しただけの被依頼者を是とする考え方にはまったく納得できません(前述のように、引用の件はおおむね解決されているようなのですでに蛇足になりますが)。--頭痛会話2013年6月29日 (土) 13:04 (UTC)[返信]

コメント 論点1に関して。頭痛さん、著作権の主従に関して間違った理解で特定の利用者をターゲットにして徹底的に編集に介入し続けたりコメント依頼を出して戦い抜くという行為は百害あって一利無しです。「脱ゴーマニズム宣言事件」程度も知らない人間が主従に関して議論などされては大迷惑です。この件は上告が棄却されたので最高裁で判定が確定しています。平成一一年(ネ)第四七八三号 著作権侵害差止等請求控訴事件
判決では

控訴人カットと文章との割合は、第九章が全体で八段あるうち控訴人カットが四段程度を占めているほかは、控訴人カットの分量はいずれも三分の一ないしそれ以下であり、被控訴人書籍全体としてみても、控訴人カットの分量は五分の一に満たないことが認められる。

とあります。高々、全体の分量の1/5だから合法、としたのです。このように、引用は必要最小限でなければならないという主張は最高裁で否定されています。頭痛さんは、自分の思い込みによる理解よりも最高裁で確定した判決の方を受け入れるべきです。
論文や原稿を募集する立場では、著作権に疎い人間が執筆する場合も考慮して、著作権上のトラブルを極力避けたいために引用は必要最小限にするように求めるのは良くある事です。そして「ラストメッセージin最終号事件」のように、正当な引用の範囲を逸脱したと判断されたケースもありますが、だからといって引用は必要最小限にしなければ引用先が「主」、引用部分が「従」にならないのでこれは確実に著作権侵害だ、という理解は全くの勘違いです。最高裁判決をよく読めば、みしまるももさんの主張の方が著作権の考え方として妥当であり、頭痛さんの意見は全くの間違いと判断せざるを得ません。ですからコメントあるいはブロック依頼が必要なのは、頭痛さんのほうでしょう。
頭痛さんにおかれましては、自分は著作権が全く理解できていない事が理解できていないのだという事を銘記し(主従に関する有名な最高裁確定判決を引用して議論をする事すらできず、高々ガイドラインを読んだ程度で著作権が理解できてると思い込み、誤った信念で行動する)二度と他人の編集に介入しない事を強くお薦めします。 --210.253.249.98 2013年6月22日 (土) 15:36 (UTC)[返信]

コメント 優秀な執筆者さん同士で喧嘩してるってとても悲しいです。お二人とも貴重な人材なのでどちらかがやる気をなくされてはwikipediaはとても困ってしまいます。お互いに相手にかまわないようにして、相手より良い記事を書くことで争ってくださると、周りの人は良質な記事を読めて幸せになります。引用については程度問題として少し多いかなと思いますが、少し減らしてくだされば問題はないと思います。--朝姫会話2013年6月23日 (日) 04:36 (UTC)[返信]

終了提案[編集]

依頼者が提起した問題はもう解決しているようなので、この依頼は閉じたらどうですか。Template‐ノート:基礎情報 小説で場外乱闘が続いているようですが。--118.237.88.136 2013年7月1日 (月) 05:09 (UTC)[返信]

皆さん、様々な御意見ありがとうございました。編集する上でとても参考になったコメントや、励みとなるコメント、注意や警告を促してくださったコメントなど、それぞれとても参考になるものばかりでした。それらを心に留めながら、これからも執筆活動に生かしていきたいと思います。--みしまるもも会話2013年7月2日 (火) 00:14 (UTC)[返信]