ボディガー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。122.17.59.161 (会話) による 2016年2月1日 (月) 16:31個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ボディガー
ボディガーの画像
プロフィール
リングネーム ボディガー
ザ・ボディガー
The Bodyguard
本名 倉川 昇
ニックネーム 鉄壁の肉体
世界最強の用心棒
身長 174cm
体重 107kg
誕生日 (1968-06-30) 1968年6月30日(55歳)
出身地 大阪府大阪市
所属 フリー
スポーツ歴 ボディビル
空手
デビュー 2009年2月11日
テンプレートを表示

ボディガー[1]1968年6月30日[1] - )は、日本男性プロレスラー、元ボディビルダー。本名倉川 昇(くらかわ のぼる)[1]大阪府大阪市出身[1]。愛称は「ボディガー」。

スーパースター・ビリー・グラハムなど、アメリカ合衆国ではトップボディビルダーがプロレスに転向した例は多くみられるが、全日本王者からの転向は初めてである[1]

経歴

小学生時代からブルース・リーに憧れ、自己流で体を鍛え始め、高校時代にアーノルド・シュワルツェネッガーに衝撃を受け、トレーニングに熱を向ける[1]。高校卒業後はバイク用品店、給食弁当配達、歯科技工士など職業を変えながら筋肉トレーニングを続ける[1]。20代後半にはトレーニング仲間である支部長に誘われて極真空手の大会に出場し、関西大会で優勝している[1]。1998年に30歳で日本フィジーク委員会 (JPC)の日本王者に輝き、『IRONMAN』12月号(アイアンマンジャパン)の表紙を飾っている[1]。2007年、39歳でJPCの全日本ボディビル大会及び「マッスルフェスタ」で優勝した[1]

日本一になったことでボディビル熱が冷めるが、鍛えた体で生計を立てることを考え、親交の深いゼウスに相談して練習を始める[1]。2008年10月11日、ルードに転向したタイガースマスクのボディガードとして大阪プロレスのリングに足を入れた[1]。2009年2月11日、「大阪ハリケーン大会」でゼウスを相手にプロレスデビューした[1]。その後はゼウスとのタッグチーム「ザ・ビッグガンズ」で活躍し、2011年2月12日に大阪プロレスタッグ王座を獲得するなどしている[1]

2011年4月30日、試合前の入場時でのトラブルから右足を負傷するも、中断することなくそのまま試合を敢行。試合後に病院での診断では"右足首靭帯断裂"と診断される。5月22日に控えた天龍源一郎組とのタッグマッチに穴を開けまいと強行出場。試合中に"右足首腓骨腱脱臼"を数回繰り返したことが判明。後に手術とリハビリのため長期欠場を余儀なくされる。

2012年には復帰し若鷹ジェット信介と共にネパールへ遠征するなど(この時のリングネームは「マッチョサムライ」)、意欲的に活動したが、続けざまに両膝の十字靭帯を断裂。再び長期欠場に入った。なおマッチョ侍として大阪プロレスにもたびたび登場している。

2013年3月24日に復帰戦が決まる。復帰後は日本人初のロシアヘビー級王者(IWF認可)になった[1]。6月23日にはゼウスとのタッグで大阪タッグフェスティバルに優勝した[1]。天王山2013決勝では、パートナーのゼウスと一騎打ちを行うも敗北している。

2014年4月20日、大阪プロレスを離脱[1]すると同時にタッグ王座を返上した[2]。以後はフリーとして活動。道頓堀プロレスでは相棒ゼウスやビリーケン・キッド三原一晃織部克巳菅沼修と行動を共にしている。5月16日にはゼウスとともに全日本プロレス世界タッグ王座に挑戦したが敗北した。また全日本ではボディガー名義で定期的に参戦中。

2015年12月23日、大阪府立体育会館第一競技場にて行われた「レッスルドリーム」にて秋山準&大森隆男組を撃破。ゼウスとともに第71代世界タッグ王座となる。

得意技

リフトアップ・スラム
ザ・バウンス
パワースラム
ボディーブレイク
アルゼンチンバックブリーカーからバックフリップを決める大技。天王山2013優勝のために開発した新技。

獲得タイトル

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「レスラーヒューマンストーリー第203回 The Bodyguard」、『週刊プロレス』No.1748、平成26年7月30日号(7月16日発行)、63-66頁、2014年。
  2. ^ 「試合リポート 大阪4・20梅田」、『週刊プロレス』No.1737、平成26年5月14日号(4月30日発行)、50頁、2014年。

外部リンク