黄飛鴻

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黄飛鴻
プロフィール
出生: 1847年8月19日
(清道光27年7月9日
死去: 1924年4月28日民国13年3月25日
中華民国の旗 中華民国広東省広州市
出身地: 清の旗 広東省広州府南海県西樵嶺西禄舟村
職業: 武術家、医師
各種表記
繁体字 黄飛鴻
簡体字 黄飞鸿
拼音 Huáng Fēihóng
Wòhng Fèihùhng(粤ピン音
和名表記: こう ひこう
発音転記: ウォン・フェイホン(広東語)
フアン・フェイホン(北京語)
ラテン字 Wong Fei-hung
Huang Fei-hung
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黄 飛鴻(こう ひこう 繁体字黃飛鴻簡体字黄飞鸿ピン音:Huáng Fēihóng 、ウェード式:Huang Fei-hung, Wong Fei-hung、粤ピン音:Wòhng Fèihùhng)は清末民初武術家、医師である。元の名は黄錫祥、は達雲、幼名を黄飛熊と名乗る。原籍は広東省広州府南海県(現・仏山市)西樵嶺西禄舟村、嶺南武術宗師であり名医。

中国最後の王朝・清朝末期の時代に活躍した武術家で、中国近代史上では最大の英雄とされる。

年譜[編集]

  • 道光27年(1847年) 広東南海で生まれる。
  • 咸豊3年(1853年) 5歳で父の黄麒英から武術を習い始める。
  • 咸豊9年(1859年) 父とともに佛山、広州、順徳など各地で武術を演じる。棍の達人を破り”少年英雄”の名を得る。
  • 咸豊10年(1860年) 13歳のとき、佛山豆豉巷で武術を演じているとき広東十虎の鐵橋三の高弟林福成の弟子となり、2年間学び鐵綫拳や飛鉈を習得する。
  • 同治2年(1863年) 広州に移り住み「寶芝林」館主となって第七甫で労働者たちに武術を教え始め、この後は見世物の武術を演じなくなった。
  • 同治4年(1865年) 広州の野菜、果物、魚の三組合から武術教練を依頼され、武術を教える。
  • 同治5年(1866年) 西樵官山で盗賊団に遭遇して一人で数十人の盗賊団を撃退する。
  • 同治6年(1867年) 西洋人が企画した「素手で猛犬を倒せたら賞金」の賭けに挑戦し無影脚で瞬殺、その名を轟かせる。
  • 光緒14年(1888年黒旗軍劉永福に武術教官に招かれ、劉永福より「醫藝精通」の額を贈られる。
  • 民国13年(1924年) 広州城西方便医院で逝去。

武歴と評価[編集]

仏山黄飛鴻紀念館の入口

父であり「広東十傑」の1人に称された武術家・黄麒英(ウォン・ケイイン)の息子で、父より南派少林拳の一派である「洪家拳(こうかけん)」を叩き込まれ父と共に修行の流転旅を続ける少年期を送るが、その技は13歳の時点では既に道場主に匹敵するほどの完成度であり「少年英雄」と称される。

成長した飛鴻は父と共に各地で武者修行を続けるが、同治2年(1863年)父の死に伴い、父が経営していた漢方薬局兼拳法道場である寶芝林の跡目を継ぐ。欧米列強の進出に伴い荒れる時代を予測して農民たちに武道を教え、自警団を率い民間レベルで治安の混乱を防いだ。やがて官軍や警察などにも同様に洪家拳を教授し、動乱時代の国の治安維持に尽くした人物として現在も評価が高い。

彼の伝えた武技は虎拳(伏虎拳、工字伏虎拳)、鉄線拳、十毒手、梅花拳、梅花十字拳、夜虎出林、二龍争珠、三箭拳、五郎八卦棍、胡蝶子母刀、飛鉈など多岐にわたり、高級技法として五形拳(龍形・蛇形・虎形・豹形・鶴形と金行・木行・水行・火行・土行の陰陽五行を相克させた拳法)と十形拳(龍・蛇・虎・豹・鶴・獅・象・馬・猴・彪)を学ぶ。飛鴻は中でも「虎形拳」を大変得意とし武術仲間から「虎痴」とあだ名されるほど多用したと言われる。また父・黄麒英伝の五郎八卦棍や少林五虎の1人・鉄橋三(本名:梁坤)の弟子「林福成」から学んだ鉄線拳を練習すると、屋根瓦が震えるほどの剛強な呼吸法だったと言われる。

さらに獅子舞の名手としても知られ、その技術の高さから「獅子王」という称号も持つ。

民国13年(1924年)没。

仏山市の中心地区にある祖廟の隣接地に「佛山黄飛鴻紀念館」が作られ、家族の紹介や関連映画、粤劇、武侠小説に関する展示などが行われているほか、演武や獅子舞が披露されている。

無影脚[編集]

彼の代表的な(伝説的な)技として有名なのが「無影脚」。正式な技の名称ではないがその素早さは疾風の如く、地面に足の影さえ映る暇もないほどだったことからこの名で称された素早い連続足技である。もともと足技主体の北派少林拳の一種の燕青拳の技だったが、飛鴻は北派の武術家・宋輝堂と自分が伝承してきた洪家拳の技の1つ「鉄線拳」とこの足技を交換教授して会得し、以後は自分の代名詞となるほどに磨き上げていった。

無影脚についての公式な試合記録は数点現存しているがいずれもその脅威の速度と破壊力に言及しており、足技においては「彼以前も以降もない」とされている。

例えば同治6年(1867年)に香港で英国人実業家が見せ物として企画した「猛犬を素手で倒せたら賞金」というイベントに成り行きで参加しているが巨大な闘犬によって多くの挑戦者が大怪我を負う中、飛鴻の恐るべき速度の蹴り技によって一瞬で犬は絶命したと当時の記録に残されている。

映画世界一[編集]

飛鴻の没直後から、中国各地の新聞や雑誌などで黄飛鴻の伝記小説や武勇伝が盛んに連載されたことを機に一気に飛鴻の伝説は広まる。彼を題材とした映画は、第二次世界大戦後である民国38年(1949年)に制作された『黄飛鴻傳上集・鞭風滅燭』(関徳興(クワン・タッヒン)主演。關は武術家でもあり、粤劇の人気舞台俳優だった)が最初であるが以降おびただしい数の飛鴻映画が製作され、2007年現在までに香港で製作された飛鴻を描くカンフー映画は2007年現在84本にのぼり、これは同一題材で製作された映画の数としては現在世界最多でギネスブックに掲載されている。彼を主人公にした作品で日本でも著名なものは、『ドランクモンキー 酔拳』や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』シリーズなどがある。

黄飛鴻と香港映画の関係[編集]

飛鴻の弟子の1人であり彼の片腕とされた武術家・林世榮(ラム・サイウィン)の弟子、すなわち飛鴻の孫弟子にあたる劉湛(ラウ・ジャーン)の息子が劉家良(ラウ・カーリョン)である。飛鴻直系と言われる洪家拳を父から学んだ劉家良はその完成度の高さから「洪家宗師」と称されるが、もともと父が武術家としての傍らアクション映画に端役で出演していたことから映画関係にも明るく、やがてショウ・ブラザースを始め数多くの香港映画界でカンフー映画の武術指導を手がけ、自身も多くに出演するなどして香港カンフー映画の隆盛を支えた。なお前述の新聞等で連載された飛鴻の小説の作者・朱愚斎も、本来は林正榮の弟子の武術家である。

その他[編集]

日本の作家東城太郎も、黄飛鴻を主人公とした活劇小説を3冊刊行している。また、梶研吾によるシャーロック・ホームズを主人公とした小説『バトル・ホームズ』シリーズの2巻にも、黄飛鴻が登場する。 又、一説によれば黄飛鴻は、1848年の8月18日生まれとあり、享年75か76とある。これは、「大図解」カンフーの必殺技や「決定版」中国武術最強の必殺技FILEと言う名の本によるもの。台湾のゲームメーカーIGSが発売した対戦格闘ゲーム『形意拳』は黄飛鴻をモチーフとしているが、日本で発売されたバージョンでは全て架空の人物名に改変されている。