辛島氏

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辛嶋氏
家祖 称・素戔嗚尊
秦氏
種別 社家
出身地 豊前国宇佐郡辛島郷
主な根拠地 宇佐八幡宮付近
支流、分家 称・漆島氏(漆間氏)(実際は津島県主の末裔[1]
凡例 / Category:日本の氏族

辛嶋氏(からしまうじ)は、日本の古代氏族の一つ。宇佐八幡宮社家であった。辛島韓嶋とも。(すぐり)。

出自[編集]

一般的に、辛嶋氏は渡来系氏族であるとされている[1]。辛嶋氏の系図では素戔嗚尊の子・五十猛神の末裔となっており、やはり渡来系であることが推察できる[1]

概要[編集]

辛嶋氏は、飛鳥時代から奈良時代にかけて、宇佐神宮に仕える女禰宜を輩出した。

元来は薦神社(現在の中津市)で神官・巫女として務めていたとされ、後に八幡神の託宣を受けたことで、大神比義とともに宇佐神宮の前身となる社を建立した。

日本書紀』巻第27天智天皇10年11月(671年)10日条によれば、韓嶋勝裟婆ら4人が、よりやって来て、唐・新羅が日本を攻めようと準備をしていることを伝えている[2]

養老4年(720年)の隼人の反乱の後に豊前国の住民が大隅国へと移住させられているが、大隅国には五十猛命を祀る韓国宇豆峰神社があることから、辛嶋氏との関係があるとする説がある[1]

神護景雲3年(769年)の宇佐八幡宮神託事件では、称徳天皇の勅使として和気清麻呂が宇佐神宮に参宮し宣命の文を読もうとした時に、八幡神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣し、宣命を訊くことを2度拒んでいる[1]

系図[編集]

素戔嗚尊
 
 
 
五十猛神
 
 
 
豊都彦
 
 
 
豊津彦
 
 
 
都万津彦
 
 
 
曽於津彦
 
 
 
身於津彦
 
 
 
照彦
 
 
 
志津喜彦
 
 
 
児湯彦
 
 
 
諸豆彦
 
 
 
奈豆彦
 
 
 
辛嶋勝乙目敏達天皇御宇任祝職奉仕)
 
 
 
黒比売
 
 
 
古津米(酒井勝志米とも)大化4年任禰宜)
 
 
 
志津米白鳳3年任禰宜)
 
 
 
茂津米
 
 
 
意布女
 
 
 
波豆米
 
 
 
久須売
 
 
 
志奈布女
 
 
 
与曽米
 
 
 
阿古米
 
 
 
豊比売
 
 
 
赤蜂将軍
  • 辛嶋勝乙目から豊比売までは女[3]
  • 赤蜂将軍は漆島時守の別名であるとされており、時守は津島縣守の子であるとされているが、縣守と豊比売の関係は不明。本来津島縣守の末裔であった漆島氏(漆間氏)が、自身の系図を辛嶋氏と結びつけたと考えられている[1]

考証[編集]

百済を滅ぼした後、百済旧域を占領するために設置した熊津都督府内に、百済で活動していた日羅などのような倭人が存在したことを暗示する記録がある[4]。熊津都督府は、665年8月に唐勅使劉仁願の立会で熊津都督の扶余隆新羅文武王の間で領土保全などを約束した羅済会盟を実現させたが、その模様を詳述する『冊府元亀[5]資治通鑑[6]旧唐書[7]には、羅済会盟直後に倭人が登場する[4]。同史料によると、羅済会盟後に百済鎮将劉仁軌が新羅、百済、耽羅、倭国の四カ国の使を率いて泰山の封禅の儀に赴いているが、儀礼の様子以外にも準備段階からそれら四カ国を含む諸蕃酋長が扈従を率いて行列に従駕したことを記している。熊津都督府のもと倭人を同行させるなど当時の熊津都督府内に倭人がいたことは確かであり、池内宏は、これらは熊津都督府に抑留または残留した倭人とみた[4]。倭人は白村江以後も旧百済地域に滞在していたが、磐井日羅が時に百済王権の立場から行動したように、倭人が熊津都督府に従事し、664年からの白村江の戦後処理の対倭交渉は、熊津都督府の倭人の既存ネットワークによって行われた部分も多かった[4]671年熊津都督府は、道久筑紫薩夜麻韓嶋勝裟婆布師磐の4人を、唐人郭務悰一行の先発隊として対馬に送っているが[8]、『日本書紀』によると、筑紫薩夜麻白村江の戦いで捕虜となり、熊津都督府にいた[9]。また道久韓嶋勝裟婆布師磐も同様の立場とみられる[4]。熊津都督府は倭人たちを自身の傘下に組み込み、熊津都督府の意向のもと、こうした倭人たちを外交活動に活発に活用した[4]筑紫薩夜麻の先代は筑紫君磐井につながる豪族とみられる[4]韓嶋勝裟婆は、「韓嶋」という氏からみて豊前国宇佐郡辛島郷豪族と推定される。熊津都督府が唐人郭務悰一行の先発隊として対馬に派遣した4人のうちの2人もが、歴史的に朝鮮半島西南(百済地域)とパイプをもつ北九州と関係のある豪族であり、白村江以後熊津都督府においても倭人の旧来のネットワークを継承・活用したことを示している[4]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 飯沼賢司『八幡神とはなにか』KADOKAWA角川選書〉、2004年6月10日。ISBN 4047033669 
  2. ^ 『日本書紀』天智天皇十年十一月十日条
  3. ^ 中野幡能 編『宇佐神宮史 史料篇 巻1』吉川弘文館、1984年3月1日。ISBN 464201196X 
  4. ^ a b c d e f g h 近藤浩一『白村江直後における熊津都督府の対倭外交』『人文×社会』編集委員会〈人文×社会 1 (4)〉、2021年12月15日、30-33頁。 
  5. ^
    開府儀同三司新羅王金法敏・熊津都尉扶余隆,盟干百済之熊津城。初百済自扶余璋与高麗連和,屢侵新羅之地,新羅遣使入朝求救,相望於路。及蘇定方既平百済軍回,余衆又叛。鎮守使劉仁願・劉仁軌等,経略数年,漸平之。詔扶余隆,及令与新羅和好。至是,刑白馬而盟。先祀神祇及川谷之神,而後歃血。其盟文曰,…。劉仁軌之辞也。歃訖,埋書弊弊於壇下之吉地,蔵其盟書於新羅之廟。於是,仁軌領新羅・百済・耽羅・倭人四国使,浮海西還,以赴太山之下。 — 冊府元亀、外臣部二十六、盟誓・高宗麟徳二年年八月条
  6. ^
    同盟于熊津城。劉仁軌以新羅・百済・耽羅・倭国使者浮海西還,会祠泰山。 — 資治通鑑、麟徳二年八月条
  7. ^
    麟徳二年,封泰山。仁軌,領新羅及百済・耽羅・倭四国酋長,赴会。 — 旧唐書、劉仁軌伝
  8. ^
    十一月甲午朔癸卯,対馬国司,遣使於筑紫大宰府言,月生二日,沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人,従唐来曰,唐国使人郭務悰等六百人,送使沙宅孫登等一千四百人,総合二千人,乗船册七隻,倶泊於比知島,相謂之曰,今吾輩人船数衆,忽然到彼,恐彼防人,驚駭射戦,乃遣道文等,予稍披陳来朝之。 — 日本書紀、天智十年十一月甲午朔癸卯条
  9. ^
    詔軍丁筑紫国上陽咩郡人大伴部博麻曰,於天豊財重日足姫天皇七年,救百済之役,汝為唐軍見虜。洎天命開別天皇三年,土師連富杼・氷連老・筑紫君薩野馬・弓削連元宝児,四人,思欲奏聞唐人所計,縁無衣糧,憂不能達。 — 日本書紀、持統四年十月乙丑条