趙氏貞

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趙氏貞
各種表記
クォック・グー Triệu Thị Trinh (Triệu Ẩu)
漢字チュノム 趙氏貞 (趙嫗)
北部発音: チェウ・ティ・チン (チェウ・アウ)
音読み (ちょうおう)
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趙嫗(ちょうおう、226年? - 248年?)は、3世紀ごろのベトナムの反乱指導者。本名は趙氏貞。また、バ・チェウ(趙夫人)や趙貞娘としても知られている。

彼女に関する最古の資料は『大越史記全書』である。「九真郡の女趙嫗なるもの、衆を集めて郡県を攻掠す。(陸)胤これを平らぐ。」という記述があり、注釈に「(趙)嫗は乳長三尺、背後に施(およ)ぶ。常に象の頭に乗り、敵と戦を交う。」とある。また、その本拠は「九真山」と書かれ、「党を結んで郡県を剽掠す。」とあるように、最初期の趙嫗は各地を荒らしまわった山賊の渠帥の類として記録されていた。しかし、ベトナム民族のナショナリズムが盛り上がるにつれて、中国支配に反抗した救国の英雄として祭り上げられていった。

248年、23歳のときに兄・趙国達らとともにに対して反乱を起こした。趙嫗は「麗海婆王」と呼ばれて恐れられた。はじめは連戦連勝で九真の呉軍を蹴散らしたが、交州刺史陸胤が兵を率いてくると半年にわたる激戦となり、最後は河に身を投げたとも、象に踏まれて死んだとも言われている。陸胤は趙嫗が生娘であることを知って素っ裸になり、趙嫗が恥ずかしがったところを打ち破ったという話がある。

趙嫗は身長9で、3尺もの乳房を持ち、それが鎧に収まらなかったために肩へ回していたという。