藤原邦恒

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藤原 邦恒(ふじわら の くにつね、寛和2年(986年) - 治暦3年8月19日1067年9月30日))は、平安時代中期の貴族。名は邦経とも記される。藤原北家良世流安芸守藤原邦昌の子。官位正四位下伊予守

経歴[編集]

一条朝末から三条朝兵衛尉衛門尉を歴任し、長和5年(1016年後一条天皇践祚に伴って六位蔵人に任ぜられた。

まもなく、五位に叙せられて阿波守に転じると、寛仁元年(1017年)ごろ阿波守万寿4年(1027年備中守受領を歴任する。長元3年(1030年)には応天門・東西廊32間・東西楼を造営した功労を理由に備中守の任期の1年延長を申請し、認められている[1]

長久元年(1040年讃岐国において、貢進物の未済や官物徴集に関連した百姓による愁訴を理由に[2]後朱雀天皇の判断により讃岐守・藤原憲房が解任される[3]。後任の国守には、備前前司・源為善らが希望を挙げるが、関白藤原頼通の意向で邦恒が任ぜられた[4]。永承3年(1048年)讃岐守の任期を終えて功過定が行われて邦恒は不与解由状を提出するが、不与状に問題があったらしく[5]、不与状は読まれないまま定文が書かれてしまい、参議藤原資房から批判を受けている(『春記』)[6]

永承2年(1047年)~同3年(1048年)にかけて藤原隆佐高階業敏とともに藤原頼通の家司として、興福寺の造営と供養に多大な奉仕を行う[7]。さらに、康平元年(1058年)に焼失した法性寺の再建・供養にも奉仕した[8]。またこの間の天喜年間(1053年-1058年)には西院の自邸に仏堂(西院邦恒堂)を造営し、定朝の手による丈六阿弥陀仏を収めた。仏堂はその壮麗さが驚嘆され(『春記』)[9]、仏像は「天下是を以て仏本様と為す」と賞賛された(『長秋記』)[10]

そのほかにも、尾張守備後守丹波守(または丹後守伊予守と後一条・後朱雀・後冷泉の三朝40年以上に亘って受領を務め、位階正四位下に至った。

治暦3年(1067年)8月19日卒去享年82。

人物[編集]

摂関家家司として権力を背景に受領を歴任し、受領として蓄えた財力で摂関家への奉仕や造寺造仏も行う、典型的な家司受領と評価されている[11]

官歴[編集]

系譜[編集]

尊卑分脈』による。

  • 父:藤原邦昌
  • 母:源任の娘
  • 妻:藤原高棟、または高快・高扶の娘
    • 男子:藤原経行
  • 妻:藤原信理の娘
    • 男子:藤原義綱
    • 男子:藤原行房
  • 生母不詳の子女
    • 男子:林禅
    • 男子:覚意
    • 男子:深縁
    • 女子:藤原季仲

脚注[編集]

  1. ^ 『小右記』長元3年9月17日条
  2. ^ 『春記』長久元年正月22日,4月22日,4月27日,5月6日条
  3. ^ 『春記』長久元年4月26日,29日条
  4. ^ 『春記』長久元年5月27日,6月8日条
  5. ^ 大日方(2012), p. 54.
  6. ^ 『春記』永承3年正月26日条
  7. ^ 『造興福寺記』永承3年正月26日,3月2日条
  8. ^ 大日方(2012), p. 56.
  9. ^ 『春記』天喜2年5月3日条
  10. ^ 『長秋記』長承3年6月3日条
  11. ^ 大日方(2012), p. 57.
  12. ^ 『御堂関白記』
  13. ^ a b c d 『小右記』
  14. ^ 『御堂関白記』
  15. ^ 『春記』
  16. ^ 『定家朝臣記』
  17. ^ a b 『尊卑分脈』

参考文献[編集]