真壁友枝

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獲得メダル
日本の旗 日本
女子 柔道
ワールドカップ団体戦
2002 バーゼル 48kg級
アジア大会
1998 バンコク 48kg級
アジア選手権
1999 温州 48kg級

真壁 友枝(まかべ ともえ、1974年11月28日 -)は岡山県勝田郡勝央町出身の日本柔道家。現役時代は48kg級の選手。身長151cm。得意技は背負投出足払[1]

人物[編集]

小学校2年の時に地元の勝央町スポーツ少年団にて兄と一緒に柔道を始め[1]、6年生からは隣接する津山市の福岡道場にて柔道に打ち込んだ[2]1990年4月、勝央中学校を卒業して岡山東商業高校に進学すると、2年生の時には全国高校選手権の48kg級では5試合を勝ち抜き優勝した。 高校も卒業に近づいた頃、周囲の関係者や持田典子の勧めもあり、また、柔道で海外遠征に行きたいという望みも手伝って真壁は住友海上火災保険(現・三井住友海上火災保険)への入社を希望した。当時は住友海上柔道部に自前の道場が無かったために、講道学舎への出稽古に試し参加[注釈 1]。しかし、住友海上柔道部の監督であった柳澤久からは体の小ささを理由に、実業団で柔道を続けるのを断念するよう勧められた[2]

「そう言われると尚さら住友海上に入りたくなった」と真壁[2]。念願かなって住友海上入社が認められ、講道学舎への出稽古ではケンカ腰で練習していたという[1]。職場では恵本裕子や隣の席であった福場由里子から仕事を、道場では常松ゆか渋谷美枝子らから柔道を教わったこの頃の事を「周囲の人に恵まれた」と真壁は述懐する[2]

しかし体の小さい真壁は、道場では先輩の打ち込み相手すら務まらず、寝技の稽古をしても相手から「もっと抵抗しろ」と言われる始末であった。悔しさと情けなさで枕を濡らす日が続いたという[2]。最初のうちは柳澤監督の毒舌にめげる事もあった[注釈 2]。また稽古だけでなく、生まれつき小食な真壁にとっては寮の食事も苦痛で、先輩に励まされながら何とか完食していた[2]。 その一方、柔道に対してストイックな先輩たちが集う住友海上は、真壁にはうってつけでもあった。既に世界を射程に入れていた諸先輩に対しても「投げられないなら、せめて膝をつかせる」と稽古に励み、入社2年目の1994年6月に開催された全日本実業選手権の48kg級で真壁は3位に食い込んでいる。

漠然と「いつかは日の丸を付けて戦いたい」と思っていた真壁だったが、1995年の世界選手権に先輩の恵本裕子が出場すると、日本代表というものが身近になってきた。恵本が翌96年アトランタ五輪で金メダルを獲得すると、愈々それは目標に変わる。1996年、97年と全日本実業選手権を連覇した真壁は、1998年全日本選抜体重別選手権の決勝で同大会7連覇中の田村亮子体落有効を取られ敗れたものの、準優勝という成績が評価され、同期の木本奈美と共にアジア大会代表に選ばれた。全日本の合宿で、「代表!」と呼ばれて元立ちに立てたのが嬉しかったと、真壁は後に雑誌『近代柔道』のインタビューで語っている[2]

アジア大会では準決勝戦で韓国の呉順栄を開始早々の支釣込足で一蹴すると、決勝戦では北朝鮮のチャ・ヒョンヒャンに3-0で判定勝ちして優勝を果たした。1999年1月の福岡国際では、3回戦でフランスのフレデリク・ジョシネ大腰、準決勝戦では長井淳子出足払で豪快に一本勝ちするなど、アジア大会からの勢いを持続させた形で勝ち進むものの、決勝戦で田村に小外掛で一本負けを喫してその勢いを止められた格好となった。同年6月のアジア選手権では代表に選出されるが、前年アジア大会と同じ組み合わせとなった決勝戦でチャ・ヒョンヒャンに敗れ、2度目のアジア王者はならなかった。

その後は今一歩のところで踏み止まっていたが、2001年の5月に足の甲を脱臼骨折。整復が効かないため手術を余儀なくされたため、3カ月間稽古はできなかった。本人の「丁度いい充電時間になった」という言葉通り[2]、復帰戦となる全国女子体重別選手権(現・講道館杯)で準優勝すると、翌2002年の全日本選抜体重別選手権では、絶対王者・田村を初戦で破り勝ち上がってきた土浦日大高校2年の福見友子を準決勝戦で横四方固で破り、決勝戦でも筑波大学中島英里子腕挫十字固で一本勝ちして念願の全日本大会初優勝を飾った。優勝後のインタビューでは「三井住友海上のみなさん、優勝しました。ありがとうございました。」と敢えて社名を挙げ、それまで自分を育ててくれた事への感謝を真壁なりの方法で表現した[2]。 さらに、スイスバーゼルで開催されたワールドカップ団体戦では準決勝戦のフランス戦のみの出場だったがきっちり一本勝ちを収めて、チームの優勝に貢献。

連覇を狙う2003年の全日本選抜体重別選手権では、準決勝戦の北田佳世との試合で真壁が腕挫十字固を極めたまま自ら前転したのを、主審が北田の一本と判断し、不運の敗北となった[2][注釈 3]。同大会では3位入賞という結果ながら、半年後の講道館杯を前に「気持ち・意欲の面でもう優勝を目指せない」として出場せず[2]、現役生活にピリオドを打った[3]

現在は三井住友海上柔道部の特別コーチを務め、恩師である柳澤久や先輩の恵本裕子らと共に後進の指導に当たっている[4]

主な戦績[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 当時の講道学舎について真壁は「雰囲気に圧倒された」「緊張感が凄かった」と述懐する。同級生に滝本誠がおり、真壁が通い始めた1993年には、棟田康幸が入寮したての中学1年生であった。
  2. ^ 柳沢監督からは入社以来3年近く、「もう辞めて帰れ」と言われ続けたという。
  3. ^ 真壁曰く、現在では真壁と北田の間でこの試合は笑い話になっているとの事。

出典[編集]

  1. ^ a b c 「ZOOM IN 素顔 真壁友枝」『近代柔道ベースボールマガジン社、1998年10月号、62-65頁
  2. ^ a b c d e f g h i j k “転機-あの試合、あの言葉 第59回-真壁友枝-”. 近代柔道(2008年7月号) (ベースボール・マガジン社). (2008年7月20日) 
  3. ^ “真壁が引退 アジア大会柔道で金メダル”. 共同通信 (共同通信社). (2003年11月21日) 
  4. ^ “三井住友海上柔道部 -選手・監督のプロフィール-”. 会社情報 (三井住友海上火災保険株式会社). (2003年11月21日). http://www.ms-ins.com/company/sports/judo/profile.html 

外部リンク[編集]