湯薌銘
湯薌銘 | |
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プロフィール | |
出生: | 1885年(清光緒11年) |
死去: |
1975年 中華人民共和国北京市 |
出身地: | 清湖北省黄州府蘄水県 |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 湯薌銘 |
簡体字: | 汤芗铭 |
拼音: | Tāng Xiāngmíng |
ラテン字: | T'ang Shiang-ming |
注音二式: | Tāng Shiāngmíng |
和名表記: | とう きょうめい |
発音転記: | タン シアンミン |
湯 薌銘(とう きょうめい)は、清末民初の海軍軍人・政治家。北京政府直隷派の軍人。字は鋳新。兄は清末民初の政治家・湯化竜。
事跡
[編集]清末から民国成立直後まで
[編集]1903年(光緒29年)、挙人となる。福建船政学堂卒業後、フランス、イギリスで海軍の技術を学んだ。1905年(光緒31年)、中国同盟会に加入したが、孫文の手提げかばんを盗む事件を起こしたことにより、会から除籍された。1909年(宣統元年)に帰国し、鏡清艦機長、南琛軍艦副艦長、同艦長を歴任し、海軍統制薩鎮氷の参謀となった。
1912年(民国元年)1月、南京に臨時政府が樹立されると、湯薌銘は海軍部次長兼北伐海軍総司令に任命され、4月、北京政府で海軍部次長に就任した。11月には海軍中将となっている。1913年(民国2年)10月、二次革命(第二革命)を支持した譚延闓の後任として、湖南都督兼民政長を署理した。1914年(民国3年)5月、湖南巡按使署理を兼任し、6月に靖武将軍の位を授与された。1915年(民国4年)12月、袁世凱の皇帝即位を支持し、一等侯に封じられた。
護国戦争後の失脚
[編集]まもなく護国戦争が発生して、翌年3月に袁が皇帝即位を取り消すと、湯薌銘も次第に保身を図るようになり、同年5月29日に湖南独立を宣言した。それから約1週間後の6月6日に、袁は死去した。しかし、それまでの親袁世凱の姿勢はやはり覆い隠しようがなく、湖南省内では「駆湯運動」が発生した。結局、同年7月、譚延闓とその支持部隊に、湯は湖南から駆逐されてしまった。
1917年(民国6年)1月、湯薌銘は信威将軍に任命され、直隷派に属するようになり、漢口商埠建築事宜督弁に就任した。1924年(民国13年)9月の第2次奉直戦争では、直隷派から会弁軍事執法司に任命されたが、奉天派に敗北して辞任した。中国国民党が北伐に成功すると、しばらく指名手配されてしまう。
非国共路線での活動
[編集]1930年(民国19年)9月、閻錫山ら反蔣介石勢力が北平で中央党部拡大会議を開催すると、湯薌銘は閻から湖北安撫使に任命された。1933年(民国22年)、中国国家社会党の組織に参加し、常務理事に就任した。日中戦争勃発後、一時は汪兆銘(汪精衛)が組織した華北政務委員会に加わったが、後に重慶へ赴き、蔣介石を支持した。
1946年(民国35年)4月、湯薌銘は国民政府軍事参議院参議に就任した。8月、中国民主社会党(国家社会党と民主憲政党の合併)の中央組織委員会常務委員兼組織部長となる。翌年7月、民主社会党中央常務委員に選ばれた。
国共内戦後は大陸に留まり、晩年は仏学研究に従事した。1975年、北京にて死去。享年91。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 高原「譚延闓」『民国高級将領列伝 7』解放軍出版社、1999年。ISBN 7-5065-2292-6。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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