橋本彦七

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橋本 彦七
はしもと ひこしち
生年月日 1897年8月11日
出生地 北海道札幌
没年月日 (1972-09-12) 1972年9月12日(75歳没)
出身校 東京高等工業学校電気化学科(現・東京工業大学
所属政党 無所属
称号 勲五等双光旭日章

当選回数 4回
在任期間 1950年2月22日 - 1958年2月21日
1962年2月22日 - 1970年2月21日
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橋本 彦七(はしもと ひこしち[1]1897年[1]明治30年)8月11日[2] - 1972年[1]昭和47年)9月12日[2])は、日本政治家、技術者。熊本県水俣市長(4期)[1]。日本窒素肥料株式会社(現・チッソ)水俣工場勤務時代、水銀触媒を用いたアセトアルデヒドと酢酸の合成法を発明[3][4]。1938年(昭和6年)から1946年(昭和21年)まで水俣工場長を務めた[1]

来歴[編集]

現在の北海道札幌市に南部家の四男として生まれる[1][注釈 1]旧制札幌第一中学校卒業[5]後、1916年(大正5年)、東京市日本橋在住の橋本家の養子となる[1]。1919年(大正8年)、東京高等工業学校電気化学科(現・東京工業大学)卒業[1]。同年、日本窒素肥料(現・チッソ)に入社[1]

1931年(昭和6年)、橋本らは、カーバイトからアセチレンを作り,これを水銀触媒を使ってアセトアルデヒドに変える一連の合成方法を発明し、特許原簿に登録した。1932年(昭和7年)から水俣工場で操業開始。アセトアルデヒドを原料とするブタノール酢酸酢酸エチル、無水酢酸、酢酸繊維素、酢酸ビニールなどの製品化に成功した[3][4][6]

1938年(昭和13年)、橋本は水俣工場長に就任[1][3]。1941年(昭和16年)、日本初となるアセチレンから塩化ビニルへの合成の成功に貢献[4]

しかし戦後、海外から会社の幹部たちが引き揚げてくると、水俣工場を追われ、1946年(昭和21年)に徳山工場長となる[1]。1947年(昭和22年)、日本特殊化成社長に就任。

1949年(昭和24年)4月1日、水俣町が市制施行して水俣市が誕生。翌1950年(昭和25年)に行われた市長選挙に立候補。新日本窒素肥料(現・チッソ)本体からの支援は得られなかったものの、水俣工場従業員の多くが加入する労働組合の支援を受けて初当選した[1][7]。1954年(昭和29年)に再選[1]

1956年(昭和31年)5月1日、水俣工場附属病院長の細川一が水俣保健所に「原因不明の中枢神経疾患」を報告した(この日はのちに水俣病の「公式確認」となる)[8][9]

1957年(昭和32年)4月8日、橋本は厚生省に「奇病発生源についての一考察」を提出。当時奇病と言われた水俣病の原因として「農薬・肥料説」を唱えた[3]

1958年(昭和33年)の市長選で中村止に敗れる[1]。中村は健康上の理由により1期で退き、橋本は1962年(昭和37年)の市長選で返り咲いた[1]

新日本窒素肥料を支える通商産業省日本化学工業協会は「有機アミン説」「爆薬説」「腐敗アミン説」など、水俣病の原因について様々な説を繰り出すが[10][11]、1962年(昭和37年)8月、熊本大学教授の入鹿山且朗は「水俣工場のアセトアルデヒド工程の反応管から採取した水銀スラッジから、塩化メチル水銀を抽出した」と発表。水俣工場の廃液と水俣病の因果関係が論文によりついに明らかとされた[12]。1965年(昭和40年)1月1日、新日本窒素肥料はチッソに改称。

1966年(昭和41年)、4期目の当選を果たす[1][7]。1968年(昭和43年)、陳情のため上京した際、脳血栓で倒れる。1970年(昭和45年)の任期満了をもって政界を引退[1][7]。1971年(昭和46年)、水俣市名誉市民を受章[1]

市長在任中の1953年(昭和28年)に水俣市立病院(現・国保水俣市立総合医療センター)、1965年(昭和40年)には水俣病患者の機能訓練を目的とした同病院附属湯之児病院(リハビリテーションセンター、現在は国保水俣市立総合医療センターに統合)を開設するなど、地域医療の充実にもつとめた[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 吉田文和によると、現在の三越デパート付近に生家の「南部商店」があったという[5]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『熊本県大百科事典』、橋本彦七の項
  2. ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、419頁。
  3. ^ a b c d 宮北隆志. “いまだに解決することのない水俣病事件 その「責任」と「償い」は?〜失敗の経験を将来に活かす〜”. 熊本学園大学水俣学現地研究センター. 2021年9月14日閲覧。
  4. ^ a b c 水俣病の悲劇を繰り返さないために −水俣病の経験から学ぶもの−国立水俣病総合研究センター
  5. ^ a b 吉田文和2014年度特別研究会 私の学問遍歴 : 若い世代に伝えたいこと」『地域経済経営ネットワーク研究センター年報』第5号、北海道大学大学院経済学研究科地域経済経営ネットワーク研究センター、2016年3月、67-80頁、ISSN 2186-9359NAID 120005749637 
  6. ^ 水俣病のあらまし(アセトアルデヒド製造工程)”. 環境省水俣病情報センター. 2019年9月1日閲覧。
  7. ^ a b c 寺床幸雄, 梶田真「地方都市の現在とこれから:―水俣市から考える―」『地學雜誌』第125巻第4号、東京地学協会、2016年、607-626頁、doi:10.5026/jgeography.125.607ISSN 0022-135XNAID 1300067766832021年10月13日閲覧 
  8. ^ 池田光穂「研究史 で追いかける水俣病事件」熊本大学附属国際人文社会科学研究センター
  9. ^ 水俣病の発生・症候”. 熊本県ホームページ (2021年1月15日). 2021年9月16日閲覧。
  10. ^ 熊本日日新聞1960年4月13日「アミン系毒物の中毒 水俣病、清浦教授(東工大)が新説」”. 新聞記事見出しによる水俣病関係年表1956-1971. 熊本大学附属図書館. 2021年9月16日閲覧。
  11. ^ 第3章 水俣病の原因究明及び発生源確定の過程(その2)国立水俣病総合研究センター
  12. ^ 水俣病問題関係略年表等”. 環境省. 2021年9月16日閲覧。

参考文献[編集]

  • 熊本日日新聞社・熊本県大百科事典編集委員会編『熊本県大百科事典』熊本日日新聞情報文化センター、1982年