明瀬川傳四郎

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明瀬川 傳四郎
基礎情報
四股名 明瀬川 傳四郎
本名 我妻 傳四郎
生年月日 1918年3月23日
没年月日 (1989-10-20) 1989年10月20日(71歳没)
出身 宮城県宮城郡七ヶ浜町
身長 173㎝
体重 86㎏
BMI 28.73
所属部屋 伊勢ヶ濱部屋
得意技 左四つ、寄り
成績
現在の番付 引退
最高位前頭13枚目
生涯戦歴 104勝88敗37休(24場所)
幕内戦歴 24勝30敗7休(5場所)
優勝 序ノ口優勝1回
データ
初土俵 1938年1月場所
入幕 1947年11月場所
引退 1950年1月場所
引退後 年寄・間垣
備考
2014年5月14日現在

明瀬川 傳四郎(あきせがわ でんしろう、1918年3月23日 - 1989年10月20日)は、宮城県宮城郡七ヶ浜町出身で伊勢ヶ濱部屋に所属した大相撲力士。本名は我妻 傳四郎(あがつま でんしろう)。最高位は東前頭13枚目(1949年1月場所)。現役時代の体格は173cm、86kg。得意手は左四つ、寄り。

来歴[編集]

19歳の時に伊勢ヶ濱部屋へ入門し、1937年5月場所で初土俵を踏んだ。

「明瀬川」の名で序ノ口に付いた1939年1月場所では、7勝0敗という好成績を残していきなり優勝を果たしている。その後も順調に出世し、1945年6月場所で新十両に昇進。

最盛期でも173cm、86kgという体格の、小兵であった。

左四つからの寄りを得意とする相撲巧者で、千賀ノ浦親方(元関脇・幡瀬川)からの教えを受けた前捌きも上手かった。

1947年11月場所にて新入幕を果たすも、幕内では体力不足や軽量であった事が祟って苦戦し、上位には進出できなかった。

巡業先では、初っ切りを担当した事もある。

西十両14枚目の地位で初日より休場した1950年1月場所を以って31歳で引退し、以降は年寄間垣として後輩達を指導していたが、翌年5月場所後に角界を去った。

その後は大阪府内に移住し、運転手の仕事に従事したという。

1989年10月20日、病により逝去。71歳没。

主な戦績[編集]

  • 通算成績:104勝88敗37休 勝率.542
  • 幕内成績:24勝30敗7休 勝率.444
  • 現役在位:24場所
  • 幕内在位:5場所
  • 各段優勝
    • 序ノ口優勝:1回(1939年1月場所=7勝0敗)

場所別成績[編集]

明瀬川傳四郎
春場所 夏場所 秋場所
1938年
(昭和13年)
(前相撲) (前相撲) x
1939年
(昭和14年)
東序ノ口7枚目
優勝
7–0
西序二段2枚目
4–4 
x
1940年
(昭和15年)
東三段目59枚目
5–3 
西三段目28枚目
5–3 
x
1941年
(昭和16年)
西三段目8枚目
4–4 
東幕下42枚目
3–5 
x
1942年
(昭和17年)
東幕下56枚目
7–1 
西幕下8枚目
5–3 
x
1943年
(昭和18年)
西幕下筆頭
4–4 
東幕下筆頭
3–5 
x
1944年
(昭和19年)
東幕下10枚目
4–4 
東幕下8枚目
3–2 
東幕下5枚目
4–2 
1945年
(昭和20年)
x 西十両9枚目
3–4 
東十両13枚目
5–5 
1946年
(昭和21年)
x x 東十両11枚目
8–5 
1947年
(昭和22年)
x 西十両3枚目
6–4 
西前頭15枚目
4–7 
1948年
(昭和23年)
x 東前頭19枚目
5–6 
西前頭21枚目
8–3 
1949年
(昭和24年)
東前頭13枚目
1–5–7[1] 
東前頭21枚目
6–9 
東十両2枚目
休場
0–0–15
1950年
(昭和25年)
西十両14枚目
引退
0–0–15
x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

年寄変遷[編集]

  • 間垣 傳四郎(まがき でんしろう、1950年1月-1951年5月(廃業))

脚注[編集]

  1. ^ 右足関節捻挫により6日目から途中休場

関連項目[編集]