平定親

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平 定親(たいら の さだちか、長徳元年(995年) - 康平6年3月3日1063年4月4日))は、平安時代中期の貴族儒官筑前守平理義の子。官位正四位下右大弁

経歴[編集]

三条朝初頭の寛弘8年(1011年元服。長和4年(1015年)文章生として敦良親王(後の後朱雀天皇)の読書始の尚復(侍読の補佐)を務め[1]、翌長和5年(1016年蔵人所雑色に補せられる。

後一条朝に入ると、寛仁3年(1019年秀才の労により六位蔵人に補任され、まもなく式部丞を兼ねる。のち、従五位下・伯耆守に叙任されて地方官に遷った。長元5年(1032年右少弁に抜擢されて京官に復し、翌長元6年(1033年)東宮・敦良親王の東宮学士を兼ねると、長元7年(1034年正五位下、長元8年(1035年)左少弁と昇進する。

後朱雀朝に入ると、長暦2年(1038年五位蔵人左衛門権佐検非違使佐)を兼ねて三事兼帯となる。その後も、長暦3年(1039年)右中弁、長久元年(1040年)前東宮学士の功労により二階昇進して従四位上、長久3年(1042年)権左中弁、長久4年(1043年)左中弁と弁官を務めながら昇進を重ねた。また、長久2年(1041年)には文章博士も兼帯している。

寛徳2年(1045年後冷泉天皇践祚すると、今度は東宮・尊仁親王の東宮博士となる。その後、参議を兼ねていた左大弁・源資通と右大弁・源経長の異動がなく、しばらく定親は左中弁にとどまる。永承4年(1049年)定親は正四位下に昇叙されるが、翌永承5年(1050年蔵人頭兼権左中弁・藤原経家が定親を超えて右大弁に任ぜられてしまった。権左中弁が正官の左中弁を差し置いて右大弁に昇任されたのは、藤原氏宗(正官は清原岑成)・藤原頼忠(正官は藤原文範)以来の3例目の珍事であった[2]

天喜2年(1054年式部大輔を兼帯して文人官僚の筆頭となり、天喜6年(1058年)15年ぶりに弁官として昇格に与り右大弁に至った。この間、寛徳・永承・天喜の改元時に勘文を提出しており、このうち永承が定親の案であったことが判明している[3]

康平4年(1061年)病気を理由に官職を退く。康平6年(1063年)3月3日に病気により卒去享年69。最終官位は前右大弁式部大輔正四位下[4]

官歴[編集]

注記のないものは『弁官補任』による。

脚注[編集]

  1. ^ 『小右記』『御堂関白記』長和4年12月4日条
  2. ^ 『弁官補任』
  3. ^ 『平安人名辞典―康平三年〈下〉』「平定親」
  4. ^ 『平安時代史事典』「平定親」
  5. ^ 『権記』に平理義の息子が元服したことが記されており、これが定親のことと推測される(『平安人名辞典―康平三年〈下〉』「平定親」)
  6. ^ a b c 『小右記』
  7. ^ 『御堂関白記』
  8. ^ 『左経記』
  9. ^ a b c 『国司補任』

参考文献[編集]