守部大隅

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守部大隅
時代 飛鳥時代 - 奈良時代
生誕 不明
死没 不明
別名 鍛大角、鍛名大隅
官位 従五位上刑部少輔
主君 文武天皇元明天皇元正天皇聖武天皇
氏族 守部
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守部 大隅(もりべ の おおすみ)または鍛 大角(鍛名 大隅)(かぬち の おおすみ)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族のち官位従五位上刑部少輔

出自[編集]

新撰姓氏録』「河内国神別」によると、「守部連」は「振魂命之後也」とある。元の氏である「鍛」(鍛名・鍛師)は鍛冶部(かぬちべ)より来ており、『書紀』の巻第二の綏靖天皇の条に「倭鍛名天津真浦」(やまとのかぬち あまつまうら)の名前が見えている[1]。倭鍛部と韓鍛部(からのかぬちべ)に分けられ、ともに金属器の製造を業務としていた。

経歴[編集]

続日本紀』巻第一によると、文武天皇4年(700年)、刑部親王以下19人と共に大宝律令の撰定者となり、その功績によって白猪史骨土師宿禰甥らと共に禄を与えられた。この時は位階は黄文連備田辺史百枝道君首名と同じ「追大壱」(正八位上に相当)である[2]。『続紀』巻第五では、元明朝和銅4年(711年)4月に黄文備・道首名らと共に正六位上から従五位下に昇叙[3]。巻第八では元正朝養老4年(720年)10月には従五位上で刑部少輔に叙された[4]

また、翌養老5年(721年)には、正月24日、25日と地震が続いたのがショックであったのか、天皇は以下のような詔を出された。

  1. 至極公平で私心のない心を持ち、忠節の心で君主に仕え、各々が職務を全うし、役所から食事のために退出する、ということを続ければ、五帝について歌った康哉(こうさい)の歌が起こるのも遠からじとして、風雨雷震の際には忠義の心で諫めるようにして欲しい。
  2. 文人と武人はともに国家にとって大事であり、医術・卜筮(ぼくぜい)・方術は古今尊ばれる。百官の中から学業を修めた人に褒賞を与えたい。

かくして、その中の一人に鍛名造大隅が選ばれ、明経第一博士として越智広江と共に(あしぎぬ)20疋・絹糸20絇(く)、麻布30端、鍬20口が与えられ、表彰されたという[5]。ただし、次の月にも地震があった[6]。巻第十によると、聖武朝神亀5年(728年)2月、勅令により、守部連の氏姓を賜った[7]。同年8月、書状をしたためて、骸骨を乞うた(致仕を申し出た)が、詔により許されず、絹十疋、あしぎぬ十疋、真綿100疋、麻布40端を与えられた[8]。以後の記録はない。

このほかにも、『令集解』に引用された「賦役令」舎人史生条によると、神亀4年正月廿六日の格に「令制正五位鍛名造大隅」とあり、同書の「考課令」にも「其清慎之善、当朝得人、守部大夫独也」ともある。『藤氏家伝』下(「武智麻呂伝」)にも、神亀年間(724年 - 729年)中の宿儒(経験と名望のある儒者)の一人として名があげられている。

脚注[編集]

  1. ^ 『日本書紀』綏靖天皇即位前紀条(神武天皇79年11月条)
  2. ^ 『続日本紀』文武天皇4年6月17日条
  3. ^ 『続日本紀』元明天皇 和銅4年4月7日条
  4. ^ 『続日本紀』元正天皇 養老4年10月9日条
  5. ^ 『続日本紀』元正天皇 養老5年1月27日条
  6. ^ 『続日本紀』元正天皇 養老5年2月7日条
  7. ^ 『続日本紀』聖武天皇 神亀5年2月17日条
  8. ^ 『続日本紀』元正天皇 神亀5年8月1日条

参考文献[編集]

  • 『日本書紀』(一)、岩波文庫、1994年
  • 『日本書紀』全現代語訳(上)、講談社学術文庫宇治谷孟:訳、1988年
  • 『続日本紀』1 ・2 新日本古典文学大系12・13 岩波書店、1989年・1990年
  • 『続日本紀』全現代語訳(上)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1992年
  • 『日本の歴史3 奈良の都』、青木和夫:著、中央公論社、1965年
  • 『コンサイス日本人名辞典 改訂新版』p349(三省堂、1993年)
  • 『岩波日本史辞典』p237、監修:永原慶二、1999年、岩波書店
  • 『日本古代氏族事典』【新装版】佐伯有清:編、雄山閣、2015年

関連項目[編集]