大庭雪斎

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大庭 雪斎(おおば せっさい、1805年 - 1873年3月28日)は、江戸時代後期(幕末)から明治にかけての蘭学者蘭方医。名は景徳、通称は忞[1][2]

人物・経歴[編集]

1805年(文化2年)、肥前佐賀に生まれる[1]

1822年(文政5年)頃、島本良順(龍嘯)に学び、1825年(文政8年)頃、長崎鳴滝塾シーボルトに学ぶ[2][3]

1843年(天保14年)、大坂で緒方洪庵に学ぶ[2][4]

1851年(嘉永4年)、佐賀藩が藩校である弘道館内に設置した蘭学寮の初代教導に就任[1][5]

1854年(安政元年)、弘道館の教導に就任。大隈重信が蘭学修業において雪斎から教えを受け、後年雪斎が良教師であったと述懐している[2]

1856年(安政3年)、『訳和蘭文語』前編を刊行し、翌年後編を刊行する[6]。1857年(安政四年)には洪庵の『扶氏経験遺訓』を参校する[2]
『訳和蘭文語』は1842年(天保13年)に箕作阮甫翻刻刊行した『和蘭文典』の翻訳版である。1822年(文政5年)にアムステルダムで出版された原書のオランダ語『ガランマチカ』及び『セエンタキス』は日本で蘭学を学ぶ者必修のオランダ語入門書であったが、原書が入ってくる数は少なく、多くの学生は筆写した。箕作の翻刻版に加え、この雪斎の翻訳した邦語版は蘭学とオランダ語学習において、大きな便益をもたらした[4]。また、この『訳和蘭文語』は、1862年(文久元年、文久2年)に文久遣欧使節が、最初にヨーロッパに派遣された際、箕作秋坪が携行してオランダに寄贈された。(現在もライデン大学図書館に保存されているといわれる[2]。)

1858年(安政5年)に、医学寮が改組し好生館となると、教導方頭取に就任[1][2]

雪斎は、佐賀藩の命で旧約聖書の翻訳も行っていた。これは藩主鍋島直正の指示によるものと思われ、蘭学寮の中に翻訳局が置かれ、雪斎も其局中の一人であったと大隈重信が語っている。雪斎の旧約聖書翻訳は半分程度まで進んだが、その最中に中国から優れた訳書が入ってきたため、途中で止めることとなった[2]。 佐賀藩は、幕府から長崎警備を任されるほど一目を置かれた藩であったが、当時世間では蘭学と言えば医学兵学科学の範囲に留まり、少数の先覚者が漸く政治に目を向けていた程度であった中で、宗教の翻訳にも着手するという先進的な藩であった。こうした環境が、そこで学んだ大隈の、その後長崎でアメリカの宣教師チャニング・ウィリアムズグイド・フルベッキについて新約聖書を学び、隠れキリシタンにおける外交問題を一時的に解決し、政府内で頭角を現すこととなる経緯に、間接ながら影響があったと考えられる[2]

1862年(文久2年)から1865年(元治二年、慶応元年)にかけ、『民間格致問答』刊行する[2]。以前著した『訳和蘭文語』とともに、これも口語文で記述し、西洋の進歩した科学を究明する学問が重要であると唱えた[7]

1865年(慶応元年)に松隈元南教導方頭取に就任[2]

1869年(明治2年)、雪斎の子である大庭権之介(景庵)が藩学寮教員となる[2]

1873年(明治6年)に亡くなり、佐賀天徳寺に葬られる[2]

長男の大庭景龍は、佐賀で初めてキリスト教会を設立したことでも知られている[6]。孫(景龍の四男)の大庭士郞は、医学博士となり、旧愛知医科大学(現・名古屋大学医学部)教授兼学生監を務めた[8]

主な著訳書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」 『大庭雪斎』 コトバンク
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 早稲田大学百年史 第一巻 第一編 序説 東京専門学校創立前史 『第八章 大庭雪斎の教えた蘭学』
  3. ^ 池田哲郎「シーボルトの渡来とその日本文化に及ぼした影響」『福島大学教育学部論集 社会科学』第18巻第1号、福島大学教育学部、1966年11月、81-85頁。 
  4. ^ a b 京都外国語大学附属図書館 世界の美本ギャラリー 『大庭雪斎訳「訳和蘭文語」』
  5. ^ 相良知安 『相良知安関係年表』
  6. ^ a b 九州旅倶楽部 種福山 天徳寺 『大庭雪斎の墓・現地案内板』
  7. ^ 大庭雪斎の墓 『説明版』
  8. ^ 名古屋大学大学院法学研究科『人事興信録』データベース『大庭士郞』 第8版 1928年7月