協和帝
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| 姓名 | 阮福昇 |
| ベトナム語 | Nguyễn Phúc Thăng |
| 年号 | 協和 1883年 - 1883年 |
| 廟号 | |
| 帝号 | 協和帝 |
| 字 | (福)洪佚 |
| 諡号 | 廃帝(朗国公) |
| 生没年 | 1846年-1883年 |
| 在位 | 1883年-1883年 |
| 父 | 紹治帝 |
| 母 | 張氏順 |
協和帝(きょうわてい、ヒエップホアてい、Hiệp Hoà、 1846年 - 1883年11月29日)は、阮朝の第6代皇帝(在位:1883年7月23日-1883年11月29日)。
紹治帝の第29皇子としてフエで生まれた。朗国公に叙せられていたが、嗣徳帝の後を継いだ育徳帝が権臣により3日で廃位されると、38歳で即位した。
協和帝が即位した頃は清仏戦争が以前続いており、戦場となった国内ではフランス軍が優勢となっていた。朝廷では阮文祥・尊室説・陳践誠の3名が輔政大臣となって実権を握り、協和帝は彼らの傀儡でしかなかった。
1883年8月20日、順安の戦いでフランス軍に敗北。1883年8月25日、フランスの保護国となる癸未条約に調印し、ベトナムの独立は失われたが、トンキン戦争はその後も続いた。
協和帝は阮文祥・尊室説の傀儡であることを不満とし、両名を排除するため、フランスに接近しようとしたが、これを知った阮文祥は慈裕太皇太后(紹治帝の皇后)に奏請したうえで協和帝を廃位し、陳践誠は殺害された。協和帝の在位期間はわずか4か月であった。
廃位された協和帝は王宮内の育徳学堂に幽閉され、そこで毒酒を飲むよう強制された。(享年38)。
次代(阮朝第7代)皇帝は、甥の建福帝である。
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