倪道烺

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倪道烺
『中華民国維新政府概史』(1940年)
プロフィール
出生: 1879年4月12日
光緒5年3月21日)
死去: 1952年5月10日
中華人民共和国安徽省蚌埠市
出身地: 安徽省潁州府阜陽県三塔
職業: 政治家・軍人
各種表記
繁体字 倪道烺
簡体字 倪道烺
拼音 Ní Dàolǎng
ラテン字 Ni Tao-lang
和名表記: げい どうろう
発音転記: ニー・ダオラン
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倪 道烺(げい どうろう)は、中華民国の政治家・軍人。中華民国維新政府、南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。炳文北京政府安徽派の有力軍人であった倪嗣沖の甥。

事跡[編集]

1913年民国2年)、安徽督軍となった倪嗣沖の下で、倪道烺は長蘆塩雲銷総局総弁となる。1918年(民国7年)、鳳陽関監督に任ぜられた。1921年(民国10年)6月2日、倪道烺は学生デモを武力で鎮圧したため(安徽六・二惨案)、非難を浴びて失脚し、一時天津に蟄居している。

1924年(民国13年)11月、段祺瑞が臨時執政として復権すると、安徽軍事善後特派員に任命された。1927年(民国16年)初頭に、張宗昌が安国軍副総司令兼直魯聯軍総司令になると、倪道烺は直魯聯軍予備軍軍長となった。しかし、直魯聯軍が中国国民党北伐軍に敗北すると、倪道烺は再び天津に逃げ込んで蟄居した。

1937年(民国26年)、日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、倪道烺は梁鴻志殷汝耕江朝宗王揖唐らと密かに連絡を取り合い、親日政権樹立を画策する。1938年(民国27年)7月、安徽省地方維持会会長となる。11月、中華民国維新政府に参加して安徽省省長に任ぜられた。

1940年(民国29年)3月、倪道烺はそのまま汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府に参加し、9月、安徽省政府主席に改めて任ぜられている。1943年(民国32年)1月[1]、安徽省政府主席から安徽省長に改めて任ぜられたが、同月中に辞任した。なお、1942年(民国31年)からは、国民政府委員をつとめている。

日本敗北後、倪道烺は蔣介石国民政府により、漢奸として逮捕された。中華人民共和国成立後の1952年3月、身柄を蚌埠市に移送されている。5月10日、蚌埠市軍事管制委員会軍法処により、改めて「叛国投敵」の罪に問われて処刑された。享年74(満73歳)。

脚注[編集]

  1. ^ 劉寿林ほか編『民国職官年表』、1115頁による。なお、徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』は、1941年(民国30年)12月8日に安徽省政府主席を辞職し、同日中に国民政府委員に異動した、としている。

参考文献[編集]

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  中華民国維新政府
先代
(創設)
安徽省長
1938年11月 - 1940年3月
次代
(汪兆銘政権に継続)
 南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(維新政府から継続)
安徽省長
1940年3月 - 9月
次代
(安徽省政府主席に改組)
先代
(安徽省長から改組)
安徽省政府主席
1940年9月 - 1943年1月
次代
(安徽省長に改組)
先代
(安徽省政府主席から改組)
安徽省長
1943年1月
次代
高冠吾