一柳貞吉

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一柳 貞吉(ひとつやなぎ さだきち、1876年明治9年)12月15日[1] - 1943年昭和18年)11月4日[2][注釈 1])は、日本の実業家・著述家。王子製紙取締役監査役を務めるかたわら、一柳家にまつわる歴史の編纂や史跡の保護にあたった。として「直幹」[4]、号として「南峰」[5]を称している。

経歴[編集]

1876年(明治9年)、岐阜県大垣生まれ[1]。父は大垣藩で藩校教授を務めていた一柳元吉(1842年 - 1919年、諱は「くん」、号「芳洲」)[6][注釈 2]。実弟に、文部省社会教育局長・国民精神文化研究所所長となる関屋龍吉がいる[4][8]。生家の一柳家は、江戸時代初期に伊予国西条藩主であった一柳氏の末裔にあたる。西条藩一柳家は2代藩主一柳直興の時に改易処分を受けたが、弟の一柳直照に5000石を分知しており、直照の家は大身旗本として幕末まで存続した[注釈 3]。貞吉の家はこの旗本一柳家から分かれた系統であり、直照の子である直増の二男・増海の子孫という[1][注釈 4]

貞吉は、1899年(明治32年)に和仏法律学校(のちの法政大学)を卒業[8][4]日本鉄道会社成田鉄道会社に勤務したのち[4]、1904年(明治37年)に王子製紙に入社。1933年(昭和8年)時点では取締役兼文書課長の職にある[注釈 5]とともに、関連会社の重役を兼ねていた[4][注釈 6]

1915年頃[注釈 7]樺太落合町で農場経営を行っていた「宗家」(旗本一柳家)の当主・一柳まことと同姓の縁から偶然に交流ができる[11]。1928年(昭和3年)8月には、「年来の宿志」として豊臣秀吉に仕えた一柳直末直盛兄弟ゆかりの箱根・山中城周辺[注釈 8]を訪問した際、菩提を弔う寺が保護を失って荒廃していること[注釈 9]や、祖先が建てた石碑が磨滅し、あるいは風水害で受けた被害からの復興がままならない状況を知る[13]。以後貞吉は、一柳家ゆかりの旧跡の調査と修繕を展開[14]、「宗家」の慎や一柳両子爵家(旧小野藩主家・旧小松藩主家)、他の一柳一族[注釈 10]、各界の名士も巻き込み、1930年(昭和5年)には「山中城趾記念碑」を建立[12]、1931年(昭和6年)には三島付近の直末の首塚を守護するため「一柳山正観寺」を移設する(ただし現存せず)など[17]奔走した。山中城址は1933年(昭和8年)10月23日に史蹟指定された[16]が、これには史蹟指定を目指して実測図を作成するなどした貞吉の尽力があるという[18][注釈 11]

1938年(昭和13年)に王子製紙監査役[19]、1940年(昭和15年)12月退職[19]

1943年(昭和18年)11月4日死去、68歳[2]

著作[編集]

  • 『芳洲遺稿』(1920年) - 芳洲と号した父の文集。
  • 『増補大垣城主歴代記』(1921年) - 江戸時代後期編纂『大垣城主歴代記』について、父が試みていた増補を完成させて刊行したもの。
  • 『野田達介翁小伝』(1922年) - 伯父についての小伝。達介は画を学んだあと、平田鉄胤門下で国学を学び、維新後は神職を務めたという人物。
  • 『一柳家史紀要』(1933年) - 一柳家の由来や一族の広がりについて記した書籍。「附録」として一族の古跡再興関連の文章も含む。
  • 『校訂一柳監物武功記』(1935年) - 『一柳家記』の異本『一柳監物武功記』に校訂を加えたもの。
  • 『南紀の旅路』(1935年)
  • 『南九州の旅』(1935年)
  • 『琵琶湖畔と富士山麓への旅』(1935年)
  • 『樺太一周』(1939年)
  • 『北九州の旅』(1939年)

旅行記は、王子製紙の工場等を視察するとともに名所旧跡を訪ねた旅行記で、詩歌や写真なども載せる私家版の出版物である。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 国立国会図書館典拠データ検索・提供サービスによれば1941年没とある。この記述の典拠は『日本著者名・人名典拠録』と思われる[3]
  2. ^ 元吉は、明治維新以後は藩校の郷学校(現在の大垣市立興文小学校)への転換を促して無償で教授にあたり、以後も地域の教育振興や史跡の保存に力を尽くしたという[7]
  3. ^ 幕末期には播磨国美嚢郡高木陣屋5250石[9]
  4. ^ 元吉は野田家から一柳家に入った養子である[10]
  5. ^ 『人事興信録』第4版(1915年)でも役職は「取締役文書課長」とある。
  6. ^ 『人事興信録』第8版(1928年)では、共同洋紙・樺太木材の取締役、北海水力電気・日露木材の監査役とある。
  7. ^ 『樺太一周』(1939年)に「24年前」とある。大谷駅付近の車窓から「一柳牧場」の看板が見えたのが契機という[11]
  8. ^ 直末は山中城攻めで戦死した。近世大名となった一柳三家は直盛の子孫である。
  9. ^ 山中城址に所在して一柳直末の墓のある宗閑寺は、「貧乏寺」で無住になっていた時期もあり、1900年(明治33年)の風水害で倒壊した堂宇の再建もままならず、当時の住職が「義侠的に管理」してかろうじて廃寺となることを免れている状況であったという[12]
  10. ^ 1930年(昭和5年)に直末の墓の修復を記念して建てられた碑には、子爵一柳末幸(旧小野藩主家)、子爵一柳直徳(旧小松藩主家)、一柳慎、一柳貞吉、一柳直宰(会津藩に仕えた一柳家末裔で、陸軍獣医監を務めた[15])が名を並べている[16]
  11. ^ 三島市サイトでは貞吉を「子爵」とするが誤りである[18]

出典[編集]

  1. ^ a b c 一柳貞吉 1933, p. 40.
  2. ^ a b 王子製紙(株)『王子製紙社史. 附録篇』(1959.10)”. 渋沢社史データベース. 2021年9月10日閲覧。
  3. ^ 一柳, 貞吉, 1876-1941”. 国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス. 国立国会図書館 (1999年7月15日). 2021年9月10日閲覧。
  4. ^ a b c d e 一柳貞吉 1933, p. 41.
  5. ^ 一柳貞吉 1939, p. 1.
  6. ^ 一柳貞吉 1933, pp. 38–40, 43.
  7. ^ 一柳貞吉 1933, pp. 38–40.
  8. ^ a b 『人事興信録』第8版(1928年)
  9. ^ 一柳貞吉 1933, p. 31.
  10. ^ 一柳貞吉 1922, p. 15.
  11. ^ a b 一柳貞吉 1939, p. 31.
  12. ^ a b 一柳貞吉 1933, pp. 附録p.15-17.
  13. ^ 一柳貞吉 1933, pp. 附録p.9-10.
  14. ^ 一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)とその子孫~一柳庵跡(いちりゅうあんあと)・宗閑寺(そうかんじ)”. 歴史の小箱(第335号・平成28年4月1日号). 三島市郷土資料館. 2021年9月1日閲覧。
  15. ^ 一柳直宰(初版)”. 人事興信録データベース. 2021年9月10日閲覧。
  16. ^ a b 一柳貞吉 1933, p. 口絵(デジタルコレクション9コマ目).
  17. ^ 一柳貞吉 1933, pp. 附録p.29-36.
  18. ^ a b 山中城跡環境整備事業”. 三島市. 2021年9月10日閲覧。
  19. ^ a b 『人事興信録 第13版 下』(1941年)p.ヒ26

参考文献[編集]

  • 一柳貞吉『野田達介翁小伝』1922年。NDLJP:910930 
  • 一柳貞吉『一柳家史紀要』1933年。NDLJP:1192151 
  • 一柳貞吉『樺太一周』1939年。NDLJP:1052488