メクリン

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メクリン部(Mekrin、中国語: 乜克力)とは、クムル(ハミ)の北東、天山山脈東端に居住していた遊牧民である。唐代の頃より存在しており、元代には「滅乞里」、明代には「乜克力」あるいは「野乜克力」と記録されている。『集史』「部族志」ではベクリン/メクリン(Bekrīn/Mekrīn,مکرین/بکرین)部族として記されている。

起源[編集]

メクリン部の起源は遅くとも唐代に遡ると見られており、『唐会要』に記される「月氏旧国」の「墨離軍」がメクリン部に関する最初の記録であると推測されている。これ以後、唐の後を継いだ契丹(遼)や金においてもメクリン部について記録が残っており、『契丹国志』では「鱉古里」、『北使記』では「磨可里」とそれぞれ記されている[1]

『集史』の「メクリン部族志」では、「その住地はウイグリスタンの険しい山地にある。メクリン人はモンゴル人でもウイグル人でもなく、険しい山地に居住するため全員が岩登りの巧者である。この部族は一つの千人隊を形成していた」と記されている[2]

モンゴル帝国時代[編集]

13世紀初頭、チンギス・カンによってモンゴル帝国が建国されると、メクリン部もまたモンゴル帝国の傘下に入った。モンゴル帝国に投降したメクリン部の長は娘のモゲ・カトン(Mūkāī Khātūn)を差し出し、チンギス・カンはモゲ・カトンを寵愛したが、子供はできなかった[3]。モンゴル帝国時代、メクリン部の住地はオゴデイ家・チャガタイ家と近かったため、この両家との関係が深かった。

オゴデイ家との関係[編集]

チンギス・カンの死後、後を継いだオゴデイレビラト婚によってモゲ・カトンを娶り、非常に寵愛したためモゲ・カトンは他の妃に妬まれるほどであったという[3]。オゴデイの兄のチャガタイもモゲ・カトンに目をつけており、オゴデイがモゲ・カトンを娶ったことを知らなかったチャガタイは使者を送って自分の后妃となるよう要求した[3]。そこでオゴデイはモゲ・カトンは既に自分が娶っており、他に気に入った女性がそちらを与えようと答えたが、チャガタイは自分が気に入ったのはモゲ・カトンであって、その他の女性ならば望まないと答えたとされる[4]

オゴデイの息子のカシンもまたメクリン部出身の女性スィプキナ(Sīpkīna)を娶っており、彼女から生まれたのがカイドゥであった。カイドゥはモンケ・カアンによって弾圧されたオゴデイ家を建て直し、正統なカアンであるクビライの主権を認めない独立した王権(通称カイドゥ・ウルス)を中央アジアに建設した。メクリン部の住地はカイドゥ・ウルスの領域に近かったため、カイドゥはジタンジュ(Jītānj)が治めるメクリン人を捕らえて自分の配下にした[2]

チャガタイ家との関係[編集]

チャガタイ家当主バラクが死んだ後、カイドゥは事実上チャガタイ家を併合し、カイドゥ・ウルスの傘下に入れた。この間にチャガタイ家の混乱を避けて東方の大元ウルス領に逃げ込むチャガタイ家王族が多く見られ、クビライはこれらの王族をチュベイを中心として河西〜ウイグリスタン方面に配置し、カイドゥに対する防波堤とした。チュベイを中心としたチャガタイ家諸王の連合体(チュベイ・ウルス)の領域にメクリン部の居住地は入っており、このため元代以後メクリン部はチュベイ王家(豳王家)傘下の部族として扱われるようになった。

メクリン人はチュベイ家の投下・分民としてシバウチ(sibau’či、鷹夫)やアバチ(abači、猟人)を務める一方、クムル東方の石城(タシュ・バルガスン)[5]に設置されたジャムチに務める義務も有していた。そのため、チュベイ家の業務とジャムチの業務どちらを優先すべきかという問題が生じ、大徳11年(1307年)にはメクリン部はチュベイ家の業務よりもジャムチの義務を優先させよとの命令がクルク・カアン(武宗カイシャン)より下された[6]。また、『経世大典』「站赤」にはチュベイの後を継いだ息子のノム・クリが同様に自らのシバウチを務めるメクリン人のジャムチの義務免除を願ったが、許されなかったことが記されている[7]

また、元代のメクリン部は「四枝滅吉憐民」とも記されており、4つの遊牧集団から構成されていたと見られる[8]

北元時代[編集]

大元ウルスが洪武帝の攻撃によって北走し、明朝が成立するとメクリン部を取り巻く情勢は大きく変わった。メクリン部はオゴデイ・カアンやカイドゥ以来縁の深いオゴデイ家との結びつきを強め、14世紀に即位したオゴデイ裔カアンのオルク・テムルアダイの有力な支持母体になったと見られている。

宣徳5年(1450年)にメクリン(麦克零)部は始めて明朝の記録に表れ、この時明朝はエジナ方面に居住するメクリン部が辺境に侵攻することを恐れ、使者を派遣して招諭しようとした[9]。これを受けて9カ月後、メクリン部の長モンケ・ブカ(猛哥不花)は沙州衛・赤斤蒙古衛とともに使者を派遣し、明朝に朝貢した[10]

宣徳帝が亡くなり正統帝が即位した頃より、モンケ・ブカ率いるメクリン部は明朝統治下の沙州衛・赤斤蒙古衛に侵攻するようになった[11]。正統元年(1436年)には沙州衛・赤斤蒙古衛とメクリン部との間に大規模な軍事衝突があり、この戦いでメクリン部を破った功績によって両衛の指導者は明朝より恩賞を受けた[12]

正統5年(1440年)にはオイラト部の賢義王タイピンの息子のネレグ(捏列骨)がクムルを攻囲し、当時バルス・クル地方で遊牧していたモンケ・ブカはメクリン兵を率いてネレグを破り、これを敗走させた[13]。しかしネレグを撃ち破ったモンケ・ブカは今度は自らがクムルを攻撃し[14]、クムルとの対立関係は正統5年(1443年)まで続いたようである[15]

一方、同時期に北方のオイラト部はトゴン-エセン父子の下で勢力を拡大し、モンゴリア全域を支配するまでになっていた。正統12年(1447年)にはモンケ・ブカとマウラー平章がオイラト部エセン配下の把把来王を襲撃する事件が起き、メクリン部はオイラト部と敵対関係に陥ってしまった[16]。これ以後の趨勢は不明であるが、クムル同様一時的にオイラト部の勢力下に入ったものと見られている。

ヨンシエブ時代[編集]

エセン・ハーンの死後、モンゴル周辺では統一的な勢力が存在せず、ハラチン部のボライオンリュート(アバガ部)のモーリハイなど、各地で有力な首長が並び立った。同時期にトルファン方面ではメクリン部出身のベグ・アルスランが登場し、当初は僅かな兵力しか持たなかったがやがて勢力を拡大し、メクリン部を統治するに至った。オルドス高原でボライ、モーリハイが相継いで亡くなると、ベグ・アルスランは天山山脈の住地を離れて東遷し、オルドス地方に移住した。ベグ・アルスランはそれまで率いていたメクリン部に加えてアスト部、ハラチン部を併合し、「大ヨンシエブ」部を構成した。

一方、ベグ・アルスランに従わず天山山脈に居住したままの者達もいた。成化9年(1473年)、モグーリスタン・ハン国のスルタン・アリーはクムルを急襲・掠奪し、クムルに属する諸民族は赤斤蒙古衛などに逃れざるを得なくなった。そこで明朝は逃れてきたクムルの臣民に官職を授け保護したが、その中でメクリン部頭目トクトア・ブカもまた指揮僉事とされた[17][18]。明朝ではトクトア・ブカ及び共に逃れてきた哈密都督の罕慎を支援してクムルを再興させようとしたが、これは実行されることがなかった[19][20][21]。また、トルファンによるクムル占領以後、クムルの弱体化によってメクリン部は自立化するようになり、明代の漢文史料ではこの頃より明朝の招撫を受けないメクリン集団の事を「野乜克力」と呼称するようになっている[22]

成化20年(1484年)にはメクリン部はトルファンとの戦いで劣勢になり、明朝の甘粛方面に移住してきた[23]。成化23年(1487年)、オイラト内部でも内部分裂が生じ、アシャ太師やウマサンジャ王が南下してメクリン部近隣に移住し、メクリン部はオイラト部とともに明朝の辺境(甘粛方面)への侵攻を狙うようになった[24]

イブラヒムの統治[編集]

弘治5年(1492年)、エセン・ハーンの息子のウマサンジャ(アマーサンジー)とヴァイス・ハーンの娘のマフトゥームとの間に生まれたイブラヒムとイルヤースが父と諍いを起こし、オイラト部から逃れてメクリン部に亡命した[25]。同年、クムルの忠順王シャンバはメクリン部と姻戚関係を結び、同時にイブラヒムとイルヤースと倶に明朝に使者を派遣した[26]。弘治6年(1493年)、トルファン・ハン国のアフマドはコムルを襲撃して攻囲し、追い詰められたシャンバはメクリン部・オイラト部に救援を要請したもののメクリン部も敗れシャンバはアフマドの捕虜となった[27]。これ以後、トルファンとメクリン部は対立関係にあり、屡々干戈を交えていた[28][29]

イブラヒムはメクリン部の長になるとともにベグ・アルスラン、イスマイル死後のヨンシエブの長にもなり、モンゴル高原の諸侯の勢力削減を図るダヤン・ハーンと対立するようになった。弘治8年(1495年)、メクリン部及びヨンシエブ部の長であるイブラヒムとモンゴルのダヤン・ハーンとの抗争は激化し、イブラヒムは明朝に入貢と互市の許可を申請して活路を開こうと図った[30]。イブラヒムは同じくダヤン・ハーンに反抗するオルドス部のマンドライ・アカラクと手を組み活動していたが[31]、最終的にダラン・テリグンの戦いでダヤン・ハーンに敗れ、僅かな部下を率いて青海地方に逃れざるを得なくなった。

これ以後のメクリン部の動向は不明であるが、モンゴル語史料においてメクリン部出身の人物(ベグ・アルスラン等)の所属が「ウイグト」や「オイラト」とされていることから、ウイグル人やオイラト人に同化・解体されたものと推測されている[32]

脚注[編集]

  1. ^ 和田1959,855-856頁
  2. ^ a b 志茂2013,816頁
  3. ^ a b c 志茂2013,816頁
  4. ^ 志茂2013,817頁
  5. ^ 『皇明経済文録』巻40「哈密分壌」には「他失把力哈遜城」、『元経世大典図』には「塔失八里」と記される。前者はモンゴル語Taš-Balγasun(タシュ・バルガスン)の音訳で、後者がテュルク語Taš-Baliq(タシュ・バリク)の音訳に当たり、それぞれ「石城」を直訳した形となる(特木勒2015,85-86頁)
  6. ^ 『元史』巻22,「[大徳十一年秋七月]諸王出伯言『瓜州・沙州屯田逋戸漸成丁者、乞拘隷所部』。中書省臣言『瓜州雖諸王分地、其民役於駅伝、出伯言宜勿従」
  7. ^ 『経世大典』「站赤」,「延祐元年七月十八日、中書省奏、前者以西辺川地、軍人当站消乏、奏准令甘粛行省買馬駝応副支遣。仍追復蒙古站戸当役。今本省回咨、欽遵上命、追究元当站甕吉剌准行哈等戸、仍令復役。及于曲先・瓜州・沙州上戸内金朴一百戸以充察巴站役。既而諸王納忽里執把聖旨、云属本位下種田戸有司不得侵犯。于所僉站内戸内指択位下戸計者取去。咨請照詳。臣等謂、元降聖旨只以百姓数目属之、豈可不令当站。合依元僉民戸仍復其役。奉聖旨准。是月、中書省奏、近者議将元僉站戸発遣答失城当站、数内有四枝滅吉憐民、或称属阿八赤・昔宝赤、因以避役者。拠諸王喃忽里来文称、当時百姓衆多、故充阿八赤・昔宝赤。今百姓数少、合令当站。此議誠然。又滅吉憐民有散居各処者、宜従彼省与喃忽里差人收聚、悉令当站、奉聖旨准」
  8. ^ 特木勒2015,84-86頁
  9. ^ 『明宣宗実録』宣徳五年正月庚戌「陝西守将言、麦克零部属、今居亦集乃、遷徙無時、恐為辺患。上命遣人招諭、如其来帰、即与官賞、択善地処之」
  10. ^ 『明宣宗実録』宣徳五年十月乙未「瓦剌等処頭目猛哥不花等遣使臣卜顔帖木児、沙州・赤斤蒙古二衛都督困即来等遣舎人阿魯火者等、来朝貢駝馬」
  11. ^ 『明英宗実録』宣徳十年三月庚辰「行在兵部言鎮守甘粛沿辺内官王安奏、甘粛涼州等七衛地方相去一千八百餘里、虜寇出沒殆無虚月。涼州之東鉄門関外有朶児只伯、鎮夷之北亦集乃路有阿端只、粛州之西河州徼外有猛哥卜花、乗間伺隙為辺境患。軍士缺馬騎操。上命行在兵部計議、乃発陝西見貯官布於軍民之家市馬給之」
  12. ^ 『明英宗実録』正統元年九月壬戌「陞赤斤蒙古衛都指揮同知且旺失加為都指揮使、都指揮僉事苦出帖木児為都指揮同知、指揮等官可児即等五十一人陞官、有差。時且旺失加遣使来言、与韃靼脱歓帖木児・猛哥卜花戦、勝有功、故有是命」
  13. ^ 『明英宗実録』正統五年八月乙亥「甘粛総兵官定西伯蔣貴言、得沙州衛都督困即来与赤斤蒙古衛各報虜情言、捏列骨同陝西丁率人馬攻囲哈密甚急、而忠勇王弟猛哥卜花新遷於把思闊之地、率兵大敗捏列骨之衆」
  14. ^ 『明英宗実録』正統五年八月丁酉「勅甘粛総兵官定西伯蔣貴等曰、爾等嘗奏捏列骨・陝西丁刼掠哈密、為猛哥不花所敗。今得哈密使臣言捏列骨・陝西丁既敗皆遁、而猛哥不花尚囲哈密未解。蓋虜情譎詐未可遽信、況猛哥不花曽有寇沙州之意、也先失干亦欲来追猛哥不花、其情倶不可測。爾等在辺宜慎之」
  15. ^ 『明英宗実録』正統八年十月庚子「勅諭沙州衛左都督困即来・赤斤蒙古衛都督同知且旺失加等曰……近哈密奏称太師頭目奄克土剌等率領人馬尋猛哥不花同哈密逃叛頭目陝西丁、囲哈密城……搶去忠順王母及人口千餘……令陝西丁同忠順王一処管事…」
  16. ^ 『明英宗実録』正統十二年十二月甲申「甘粛総兵官寧遠伯任礼等奏、比得哈密使臣報瓦剌也先所部把把来王率衆二千屯伯塔山、猛哥不花子与頭目満剌平章乗其出、率衆襲之、悉俘其人畜。上曰也先既失志、必欲報復。其令甘寧延綏総兵鎮守官厳飭兵備」
  17. ^ 『明憲宗実録』成化十年正月壬子「以哈密頭目脱脱不花等為指揮僉事等官、命暫居苦峪城。都督同知李文・右通政劉文奏、奉勅至甘州、適遇速檀阿力有使入貢、即遣人随其使、齎勅往諭之、俾帰哈密之地、尚未報。又哈密頭目脱脱不花等六人見居甘州、自言願率衆五百帰附、乞官職賞賜、暫居苦峪、誓必克復故城。臣等謂宜俯順夷情、使為捍衛。如速檀阿力頑獷不服、即調赤斤・罕東等衛、併力攻勦、以図成功。事下、兵部言、以夷攻夷、中国之利。況成大事者不計小費、宜従所請、並令文等以所齎銀・幣量給賜之、仍各量授一職、奨其帰向之誠。故有是命」
  18. ^ 『明憲宗実録』成化十年正月甲辰「西番定王領真俄即爾遣鎮撫本作王真如加等、乜克力頭目脱脱卜花遣俺南多等、倶来朝貢馬。賜宴並襲衣・綵幣・表裏等物、有差。仍令齎勅並衣服・綵幣、帰賜領真俄即爾・脱脱卜花」
  19. ^ 『明憲宗実録』成化十年閏六月乙巳「…文等以聞于朝、且言、速檀阿力所部精兵不過三百、馬歩兵不満二千。与巡撫都御史朱英等議、欲調官軍一千出境、会合赤斤・罕東等衛番・達、並哈密都督罕慎及乜克力指揮脱脱卜花等諸部人馬、尅期収復、且乞陞用俊等、以為辺方効力之勧。事下、兵部覆奏、請勅文等相機従事。詔可、馬俊等各陞一級」(特木勒2015,87頁)
  20. ^ 『明憲宗実録』成化十年十月己丑「…遂勅罕慎曰、今特命爾掌管哈密人民、暫於苦峪等処駐箚、仍令乜克力指揮脱脱卜花等協謀守護、蓄養鋭気以囲後功…」
  21. ^ 『明憲宗実録』成化十二年九月丁巳「分守粛州鎮夷右参将都指揮使劉晟奏、苦峪降夷乜克力指揮脱脱卜花等計窮托処非其本心、求取無厭輒生離間頃有同居。哈密夷人来報謂、其将因入貢往奔北虜今果有朝貢之請、使其計得行為患非細莫若因其至京安置内地以靖辺患。事下、兵部言、乜克力夷人自来降迄今、未聞犯順、若止信伝報遽爾拘留恐他番聞之、各懐疑懼然狼子野心亦不可測。宜移文甘粛巡撫鎮守官、拘集哈密乜克力留辺、使人令譯者審其各酋部落在於苦峪出入往来和睦与否乜克力果有離間之言、叛背之意与否若晟所奏果伝報虚詞仍令如旧安集不然則具奏処画報可」
  22. ^ 特木勒2015,88頁
  23. ^ 『明憲宗実録』成化二十年正月己亥「甘粛総兵官署都督同知王璽等奏、哈密部落野乜克力因避土魯番之害、徙居甘粛境外、屡掠鎮番等境、蹤跡詭秘、不可不防。今欲令都督罕慎招諭之、不悛則進兵剿滅。事下、兵部言、罕慎方遣使入貢、宜於其還、勅令招撫、果冥頑不服、則奏聞処治、従之」
  24. ^ 『明憲宗実録』成化二十三年五月丙寅「甘粛総兵官都督同知周玉等奏、哈密都督罕慎訳報、虜酋瓦剌養罕王率衆七千在把思闊把思閏境屯駐大。瓦剌阿沙太師与其平章把禿撒及阿力吉多王・兀麻拾王等分駐察罕阿剌帖児等境、欲入辺剽掠。而羽奴思王子・鎖檀阿麻王復侵奪察力失等四城、野乜克力達子亦分屯失把力哈孫及禽山等処、欲往甘粛剽掠…」
  25. ^ 間野1964,12-17頁
  26. ^ 『明孝宗実録』弘治五年十月乙卯「哈密忠順王陝巴既襲封帰国、与野乜克力奴禿卜花台卜之女結婚、其隣部亦剌思王・亦不剌因王率其頭目鎖和台卜・平章満可・知院左右之各遣人奏其事、因乞結婚財礼並賞賜…」
  27. ^ 『明孝宗実録』弘治六年四月己亥「土魯番速壇阿黒麻率兵夜襲哈密城、哈密死者百餘人、竄降者各半。忠順王陝巴及其都督阿木郎拠大土剌以守。大土剌華言大土台也。囲之三日、不能得阿木郎遣調野乜克力・瓦剌二部兵為援、皆敗。土魯番遂殺阿木郎、執陝巴以去。令其酋長牙蘭拠哈密移書甘粛守臣謂、本国既献哈密城池阿木郎、復潜導野乜克力人馬、至其国中抄掠、朝廷所賜衣幣亦被剋減……比得、甘粛鎮巡等官奏、具知哈密都督阿木郎両次引領野乜克力人馬、搶爾部下牛羊等畜…」
  28. ^ 『明孝宗実録』弘治七年八月甲申「大通事錦衣衛帯俸指揮僉事王英奏、朝廷設哈密衛当諸夷通路毎歳各処回回進貢者至此必令少憩以館穀之或遇番寇刼掠則人馬亦可以接護柔遠之道可謂至矣。今速壇阿黒麻悖逆天道、二次犯辺朝廷不即加罪仍撫之以恩阿黒麻不思悔過不思乃復奪城池刼金印執陝巴跡其所為背逆益甚。聞罕東左衛居哈密之南、相去止三日。野乜克力居哈密之東北、相去止二日。是皆唇歯之地。阿黒麻於去歳八月内約哈密守城頭目牙蘭、遣使至罕東左衛都督只克処、脅令投順、只克不従。野乜克力原属哈密、今与阿黒麻讎殺、阿黒麻又曽殺其頭目罕乃法思、其弟火者賽亦・子密児賽亦皆思報怨…」
  29. ^ 『明孝宗実録』弘治八年五月甲午「巡撫甘粛都御史許進等奏、涼州西通甘粛、東抵荘浪綿亘三百餘里、原野夷曠無山川之険鎮番一衛去涼州二百五十餘里、逼臨虜境四面受敵防禦尤難……今土魯番未見納款野乜克力臨辺、住牧西番…」
  30. ^ 『明孝宗実録』弘治八年六月甲寅「北虜野乜克力之地、其酋長曰亦剌思王、曰満哥王、曰亦不剌因王、各遣其頭目川哥児等三十四人款粛州塞、言為迤北大達子刼殺、欲避之近辺住牧、恐中国不信、乞容入貢及互市…」
  31. ^ 『明孝宗実録』弘治十一年七月己酉「太子太保左都御史王越率師襲賀蘭山後虜賊。先是、勅諭総制越云、賀蘭山後乃虜賊巣穴、累次寇辺。皆自彼而入使其住居年久、熟知地方。或誘引北虜大衆、或招来野乜克力等夷、為患不小」
  32. ^ 特木勒2015,86頁

参考文献[編集]

  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 間野英二「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、1964年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古編)』東洋文庫、1959年
  • 特木勒(Temür)「元明時期Mekrin部史事考」『民族研究』、2015年