ノム・クリ

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ノム・クリモンゴル語: Nom Quli、? - 1391年)は、チンギス・カンの次男のチャガタイの子孫で、大元ウルスで活躍したモンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢字表記は南忽里/喃忽里/納忽里/那木忽里、『集史』などのペルシア語表記はنوم قولی(Nūm qūlī)。

セチェン・カアン(世祖クビライ)からハミル一帯の統治を任ぜられた豳王チュベイの嫡男であり、父の地位を引き継いだ。

概要[編集]

ノム・クリが史料に始めて登場するのは大徳7年(1303年)のことで、この時ノム・クリはオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)から鈔・幣を下賜されている[1]。『オルジェイトゥ史』によると、カイドゥ・ウルス(カイドゥの国)を完全に滅亡させたイルティシュ河の戦いにおいて、ノム・クリはトガチ丞相とともに一軍を率いてカイドゥ・ウルス軍と戦ったと記録されている。クルク・カアン(武宗カイシャン)が即位した前後、1309年1313年頃にノム・クリは亡くなった父の後を継ぎ[2]、チュベイ・ウルス統治者「豳王」として遇されるようになった[3][4][5]

オルジェイトゥ・カアンの治世にチャガタイ・ウルス(ドゥア・ウルス)の君主ドゥアとの和平が成立して以来、大元ウルスとチャガタイ・ウルスの関係は安定していたが、ブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)が即位すると両者の関係は崩れ、軍事衝突に至った。

オルジェイトゥ史』によると、1314年頃チュベイの子のノム・クリとブヤン・ダシュ、チュベイの甥のコンチェクが12万人隊を率いて粛州からウイグリスタンに至る地に駐屯し、チャガタイ・ウルスの君主エセン・ブカの弟のエミル・ホージャ率いる2万の軍に相対していたという[6]。この戦役でノム・クリ率いる軍はしばしば窮乏したため、ブヤント・カアンは馬や金銀を何度か支給している[7]

ノム・クリの没年は不明であるが、ゲゲーン・カアン(英宗シデバラ)即位の前後に亡くなったものと見られる。

子孫[編集]

ノム・クリ以降の豳王家に関する記述は次第に断片的になり、その系譜を辿ることは難しいが、ティムール朝で編纂された系譜史料『高貴系譜』によってその子孫について知ることが出来る。

ノム・ダシュ[編集]

『高貴系譜』はノム・クリにノム・ダシュ(Nūm tāšنوم تاش)とブヤン・テムル(Buyān tīmūrبیان تیمور)という二人の息子がいたことを伝えている。また、「重修文殊寺碑」には「ノム・クリ大王(喃忽里大王)」の後を継いだのは「ノム・ダシュ太子(喃答失太子)」と記されており、ノム・ダシュこそがノム・クリの後継者であったと確認される。そして、ノム・ダシュこそが「重修文殊寺碑」を建設した本人であった。

至治元年(1321年)にはコンチェク、クタトミシュとともに印璽を与えられたが、他の2名が従三品であったのに対しノム・ダシュは正三品で、1ランク上に位置づけられていた。この記事から、当時チュベイ系の王家が3つあったこと、その中でノム・クリ系王家が他の2王家を統轄する立場にあったことが確認される[8]

ノム・ダシュの死後、チュベイ王家ではノム・クリの弟のクタトミシュ天暦の内乱を通じて急速に勢力を拡大し、豳王の称号とチュベイ・ウルス当主の座を奪うまでに至った。

ブヤン・テムル[編集]

ノム・クリのもう一人の息子のブヤン・テムルはジャヤガトゥ・カアン(文宗トク・テムル)の治世から「豳王」として登場するようになり[9]1330年代初頭にはクタトミシュに代わって豳王の称号とチュベイ・ウルス当主の座を継承したと見られる。

ブヤン・テムル以後の豳王については更に情報が少なく、「豳王嵬釐」や「豳王亦憐真」といった人物が現れるが[10]『高貴系譜』に対応する人名は登場しない。

チュベイ・ウルス当主[編集]

  1. 豳王チュベイ(Čübei,豳王出伯/Chūbaīچوبی)…アルグの息子
  2. 豳王ノム・クリ(Nom Quli,喃忽里/Nūm qūlīنوم قولی)…チュベイの息子
  3. ノム・ダシュ太子(Nom Daš,喃答失太子/Nūm tāšنوم تاش)…ノム・クリの息子
  4. 豳王クタトミシュ(Qutatmiš,豳王忽塔忒迷失/Qutātmīšقتاتمیش)…チュベイの息子、ノム・クリの弟
  5. 豳王ブヤン・テムル(Buyan Temür,豳王卜顔帖木児/Buyān tīmūrبیان تیمور)…ノム・クリの息子、ノム・ダシュの弟
  6. イリンチン(Irinǰin,豳王亦憐真/Irinǰinبولاد تیمور?)…ブヤン・テムルの息子?
  7. 豳王ビルゲ・テムル(Bilge Temür,豳王列児怯帖木児/Bilkā tīmūrبلکا تیمور)…ボラド・テムルの息子

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻21,「[大徳七年五月]乙卯……賜諸王那木忽里鈔千錠・幣三十匹」
  2. ^ 杉山2004,252頁
  3. ^ 『元史』巻21,「[至大元年十一月]乙丑、賜諸王那木忽里金印」
  4. ^ 『元史』巻21,「[至大三年春正月]癸未……賜諸王那木忽里等鈔万二千錠、賜宣徽院使拙忽難所隷酒人鈔万五百八十八錠」
  5. ^ 『元史』巻21,「[至大三年三月]乙酉……遣刑部尚書馬児往甘粛和市羊馬、分賚諸王那木忽里蒙古軍、給鈔七万錠」
  6. ^ 杉山2004,334-370頁
  7. ^ 『元史』巻24,「[皇慶二年五月]甲申……給馬万匹与豳王南忽里等軍士之貧乏者」。『元史』巻24,「[皇慶二年秋七月]丁未、賜諸王火羅思迷・脱歓・南忽里・駙馬忙兀帯金二百両・銀一千二百両・鈔一千六百錠・幣帛各、有差」。『元史』巻25,「[延祐二年五月]戊戌、豳王南忽里等部困乏、給鈔俾買馬羊以済之」。『元史』巻25,「[延祐三年冬十月]乙未、賜豳王南忽里部鈔四万錠」。『元史』巻25,「[延祐四年閏月]壬辰、給豳王南忽里部鈔十二万錠買馬」。『元史』巻25,「[延祐五年八月]丙寅……豳王南忽里等部貧乏、命甘粛省市馬万匹給之」。
  8. ^ 『元史』巻27,「[至治元年]夏四月丙午、給喃答失王府銀印、秩正三品。寛徹・忽塔迷失王府銅印、秩従三品」。『元史』巻28,「[至治三年]三月壬辰朔、車駕幸上都。賜諸王喃答失鈔二百五十万貫、復給諸王脱歓歳賜」。『元史』巻31,「[致和元年六月]是月、諸王喃答失・徹徹禿・火沙・乃馬台諸郡風雪斃畜牧、士卒饑、賑糧五万石・鈔四十万錠」
  9. ^ 『元史』巻35,「[至順二年八月]丁巳、命豳王卜顔帖木児囲猟於撫州」。『元史』巻36,「[至順三年春正月]壬午、命甘粛行省為豳王卜顔帖木児建居第」
  10. ^ 『元史』巻36,「[至正十二年秋七月]庚寅、以殺獲西番首賊功、賜岐王阿剌乞巴鈔一千錠、豳王嵬釐・諸王班的失監・平章政事鎖南班各金系腰一」

参考文献[編集]

  • 赤坂恒明「バイダル裔系譜情報とカラホト漢文文書」『西南アジア研究』66号、2007年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 松村潤「明代哈密王家の起原」『東洋学報』39巻4号、1957年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年